武家の出のじいさんの影響で知識が増えた
―― お父様、お母様も同居されていたわけですよね。
村田 実は美唄で生まれてすぐ、母の実家がある博多に引っ越したんですよ。父は函館商船を出て、世界各国を船で回っていて、長崎に寄港したおりに母と出会って結婚したんですけど、母が八百屋の娘だったことが、じいさんは気に入らなかったようです。私が5歳のとき胆石で亡くなった母が、「北海道のおじいさんは金持ちで教育もある人だから、栄子は北海道にやってくれ」と言ったらしくて。八百屋のばあちゃんは北海道にやるのはかわいそうだと言ったそうだけど。
―― 武家の出のおじいさん、しつけは厳しかったですか。
村田 そうですね。大事にはされましたけど、かわいがるというよりは、プライドで育てられたような。学校から帰ると部屋中に世界地図が広がっていて、「今お父さんはこの辺に行ってるんだよ」とか。ご飯食べながら、祖父が何やら盛んに口にする四文字熟語を覚えたりとか。そういうやりとりでも知識が増えたように思います。メンタルテストとかいう、今でいう知能検査みたいなものもやらされていたし。そうそう、磁石を頭に巻くと頭がよくなるとかいうエジソンバンドは恥ずかしかったなぁ。
私、小学5年中退みたいなもので、学力には劣等感あります
―― エジソンバンドって戦中からあったんですね。
村田 祖父が通信販売好きで、新聞広告か何かで取り寄せたみたいです。学校から帰ったらエジソンバンド巻けって。周りに大事にされすぎたせいか、私、子どものときは体が弱くて、20歳ぐらいまでしか生きられないかもしれないとお医者さんに言われたらしいんですよ。だから、うちに2人いた助手というか書生みたいな人が、すぐ目の先の学校までランドセルを持ってくれて、校門に入るときに背負わせて、帰りもまた校門で待っているから道草も食えない。戦争が始まってからは、体が弱いなんて言ってられなくなりましたけど。
―― 日常生活が変わった?
村田 毎日学校に通えたのは小学校5年生まで。若い人は兵隊に、農耕用の馬も徴用されたので、私たちは勤労奉仕で、したこともない畑仕事ですよ。馬が引っ張る「コロ」という用具を私たちが引いて畝をつけたり、ジャガイモを収穫したり。男の子は軍需工場ですね。せっかく上がった岩見沢の女学校も軍に接収されちゃったし。だから私、小学5年中退みたいなもので、学力的にすごく劣等感があるんです。