●上段の間
昌幸や信繁が客人との公的な食事や面会の際に使っていたといわれる部屋を忠実に再現したもの。昌幸・信繁は高野山を下りて九度山で暮らすようになってからも、蓮華定院と九度山を往復していたのでよく使用していた。確かに襖絵や調度品などは豪華で格調高く、一国一城の主の部屋といった趣だ。一段上がっている場所に昌幸が座り、下の畳に信繁や重臣や住職が座って食事をしたり、談義を重ねていたと考えられている。当時の部屋そのものではないが、こういうところで昌幸・信繁が生活していたのかと想像するだけでも胸が躍る。
●真田親子の肖像画の謎
上段の間には真田親子の肖像画が掛けられている。世間一般的には向かって左は昌幸、中と右は信繁と広く知られているが、蓮華定院の添田隆昭住職によればその認識は間違いで、正しくは左から信之、信繁、信綱(昌幸の兄)だという。その根拠は、これらの肖像画は拡大複製されたもので原画は蓮華定院に保管されているが、昌幸とされている原画はもう1本の巻物とともに箱に収められていた。広げてみると女性の肖像画で、顔の上に南無阿弥陀仏とあるが、墨で書かれた文字ではなく、人間の髪の毛を縒り合わせて貼り付けられたもの。松代藩の正式な資料によるとその女性は信之が93歳で亡くなるまで身の回りの世話をした女性で、「自分の肖像画に自分の髪の毛を縒り合わせて南無阿弥陀仏と貼り付けて、信之の肖像画と一緒に高野山に納めた」と書いてある。そして何よりこれらの肖像画が収められた箱には「信之公」と書かれているというのだ。そもそも昌幸とされる肖像画の人物はどう見ても80~90歳の老人。昌幸の享年は64、信之は93歳。蓮華定院には信之の大五輪塔も現存する。ゆえに、この人物は昌幸ではなく晩年の信之と見てまず間違いないだろう。ちなみに真田氏の地元・上田でも古くからこの肖像画は昌幸だと伝わっているが、上田市が運営する上田市デジタルアーカイブポータルサイトの真田氏資料集でも、「画像は蓮華定院の伝来通り信之のものではあるまいか。再検討の必要があるかと思われる」と記載されている。
また、一番右の信繁とされている肖像画も箱書きには、昌幸の兄で長篠の戦いで戦死した「信綱」とある(信綱に関しては第3回【信綱寺】「真田三代」の二代目になるはずだった男が眠る墓を参照)。ちなみに、添田住職によれば2016年4月29日から6月19日まで江戸東京博物館で開催され、9月17日から大阪歴史博物館でも開催されている「2016年 NHK大河ドラマ特別展 真田丸」でも、一番左の肖像画が信之で、一番右が信綱と説明書きがされているという。このような「人違い」が起こったのは、長い年月の間に多くの人々によって模写される過程で間違った情報が伝えられたためだと考えられる。近年、長らく教科書に掲載されていた足利尊氏や源頼朝などおなじみの歴史上の人物の肖像画も実は別人だったという事実が判明したのも同じような理由からだろう。
さらに添田住職の見解では、真ん中の信繁とされる肖像画も「あやしい」。確かに「好白」は信繁が得度して得た僧名なので、一見正しいように思える。しかし肖像画には「真田左衛門助幸村画像、旧図によってこれを写す」と書かれており、つまりこれも模写されたもの。描かれた時期は「時に慶長丁卯の年、四月」と記載されてあるので、添田住職が正確な年を知るために調べてみたところ、慶長に丁卯という年はなかったという。