沖縄と東京で、僕は戦争中に2回命拾いしてるの
―― 実は、仲本さんの生い立ちが漫画になってる記事を発見したんです。1971年8月の『明星』なんですが。
仲本 えっ、何これ。知らなかったよ! わぁー、通信簿まで出てるよ(笑)。
―― ご両親は沖縄出身で、それぞれ単身で東京に出てこられたんですね。ここに、「戦争中には沖縄へ疎開した」と書かれてますが。
仲本 そう、生まれてすぐだから、僕は覚えてないんですけどね。2歳くらいのときかな。おふくろの夢見が悪くて、すぐに東京へ戻って来たらしい。そしたら、ちょうどその直後に沖縄が大空襲にあった。東京でもそんなことがあって、僕は戦争中に2回命拾いしてるの。
―― 沖縄は終戦から長らくアメリカの統治下にありました。仲本さんには沖縄への思いってありますか?
仲本 返還になる前に、両親を連れて沖縄へ行ったことがあるの。親父が住みたいんじゃないかと思って、土地を見て回った。でも、帰る気はなかったみたいだね。そのとき、初めて親父の実家にも行ったんだよ。びっくりしたのが、親父のお兄さんが「お土産にヤギ1頭持ってけ」って言うんだよ。ヤギは貴重なんだろうけど、東京のどこで飼うんだって(笑)。
―― お父様は、東京で最期を迎えられたんですね。
仲本 親父がガンを患ってね。そしたら、そのお兄さんに親父「お前、迷惑かけるなら早く死ね」なんて言われて。もうびっくりしちゃった(笑)。農家だから長男しか大事にしないんだね。だから親父逃げだしたんだなって、そのときはっきり分かった。
今でも思ってるよ、なんで僕コントしてるんだろうって
―― ところで、ドリフに入った仲本さんは最初「音楽担当」だったんですよね?
仲本 そうそう。ドリフというのは音楽をやりながら、音楽ネタのコントもするバンドだったわけです。でも僕はコントなんてできない、向いてないと思ったから、譜面を書いたりする音楽担当ならって引き受けたんです。
――音楽担当とは、どんな役割なんでしょう。
仲本 『ホイホイ・ミュージック・スクール』という番組では、毎週3人の歌手オーディションがあったんです。その伴奏のアレンジを任されて、譜面書いてました。ほかにもジャズ喫茶のネタの譜面も書かなきゃいけない。ドリフの音楽ネタは、曲を完璧に仕上げてからコメディーに崩していくの。だから時間がかかるんだよ。下手すりゃ1ヵ月くらいかかることもある。でも、それじゃテレビの撮影ペースに追いつかなくなるよね。それで、だんだんコント主流になっちゃったの。
―― 音楽担当としては、どんなお気持ちだったんですか?
仲本 自分ではコントやるつもりはなかったからさ、なんでここまでいかりやさんに叱られながら、好きでもないコントの稽古してるんだろうって。今でも思ってるよ、なんで僕コントしてるんだろうって(笑)。
ビートルズは譜面が書きにくかった
―― 今でもですか(笑)。そんな中、1966年のビートルズ来日公演では、前座として出演されています。
仲本 あれは正直、僕らとしては出たくて出たわけじゃないんですよ。とにかく毎日忙しくて、余分な仕事が入ってきたなって感じ(笑)。
―― その頃、仲本さんはミュージシャンとして、ビートルズをどういう風に見てましたか?
仲本 思い出すのは、譜面が書きにくいなあってこと。ドリフではビートルズの曲もコピーしてやってたんですけど、コード進行が斬新すぎて写しにくいの。『抱きしめたい』とかね。だからこそ、音楽の歴史を変えたバンドって言われているんだろうけど。