いかりやさんが気にしてたのは「ウケるギャグのやめ時」
―― 音楽ネタでどの曲をやるかは、誰が決めてたんですか?
仲本 それは、いかりやさん。まずギャグを考えて、そのギャグに相応しい曲を選ぶ。いかりやさんは、そのセンスに長けてたんです。そしてドリフは昔から、いかりやさんが決めないと何も決まらない(笑)。
―― まさに強いリーダーだったんですね。
仲本 リーダーとして特にいかりやさんが気にしてたのは、「ウケるギャグのやめ時」。やっぱり飽きられてからやめちゃだめなんだよ。一番いい時にやめる。『全員集合』もそうだったんじゃないかな。いきなり「やめる」って言い始めたから。自分の疲れもあるだろうけど、やめ時を一番気にしてたね。
―― 『全員集合』をやめると聞かれたとき、どう思いましたか?
仲本 いかりやさんがやめるって言うんだからしょうがないじゃん。いかりやさんが言うことは絶対だよ。社長なんだから(笑)。
「バカな子がいる家への配慮がない」って言われた「バカ兄弟」
―― いかりやさんと仲本さんと言えば、『ドリフ大爆笑』のコント「バカ兄弟」が忘れ難いです。
仲本 実はあのコントが一番難しかった。僕が「あんちゃん、あんちゃん、これってどういう意味?」って聞いて、いかりやさんが間違ったまま話を展開していくパターンですから、内容をうんと深めていかなきゃならないんですよ。だから稽古時間がめちゃめちゃ長かった。まずテーマを決めて、いかりやさんと二人で掘り下げていくんだけど、薬の効能をネタにしたときなんか大変だったな。難しい漢字ばっかりで、バカ兄弟じゃなくても読めないものばっかりなんだもん(笑)。
―― そんな知られざる苦労があったんですね……。
仲本 新聞見たり資料見たりして拾っていくから、けっこう作り方もネタも現代的だったよね。ただ、あのコントは一部からの抗議もあって、やめたんです。バカな子がいる家への配慮がないとか、ミもフタもないこと言われて。だけどね、あのコントは「仲のいい兄弟」というのがテーマなんですよ。あんちゃんのことを尊敬する弟、そんな弟をかわいがる兄という。そこのところが、知識人の先生方には伝わらなかったみたいで(笑)。
今、誰に会いたいかって聞かれたら、お母さんと、いかりやさん
―― いかりやさんが亡くなったのは、2004年のことです。体調が悪いことはご存知でしたか?
仲本 そんなに悪いとは思ってませんでした。亡くなる少し前には『大爆笑』のオープニングとエンディングを一緒に撮影したし、いかりやさんも「医者に行けば治るから」って言ってたからね。まさか亡くなるとは思ってなかった。
―― じゃあ、第一報を聞いたときは……。
仲本 そうだね……。その日、僕は登別で芝居に出てました。そこへ連絡があってね。すぐに飛行機でお通夜にかけつけて、また仕事に戻らなきゃならなかったけど、あのときばかりは涙があふれてきてね。
―― 仲本さんにとって、いかりやさんとはどんな人でしたか。
仲本 特別な人としか言いようがないよね。今、誰に会いたいかって聞かれたら、お母さんと、いかりやさんって言うもん。僕にとっては父親代わりの人でもあったからなあ……。でもね、僕らと同じく、ドリフのファンにとっても特別な人なんだと思う。だって、お店に来たお客さんにいかりやさんの話すると大喜びするの。まあ、もっぱら僕が聞かせるのは、“コントの鬼”だったいかりやさんの悪口なんだけどさ(笑)。
なかもと・こうじ/1941年東京生まれ。東京都立青山高校では俳優の橋爪功と同級生、2年上には柳家小三治がいた。学習院大学在学中から音楽活動を始め、のちにザ・ドリフターズに参加。現在は俳優としても活躍するほか、東京・緑ヶ丘で「仲本家 JUNKAの台所」を経営している。
写真=鈴木七絵/文藝春秋