「報復を許さなかった理由は不明だ」(警察庁幹部)とされているが、こうした事情もあり山健組と池田組は神戸山口組を離脱。山健組は6代目山口組に復帰、池田組は独立組織となった。
現在、分裂をきっかけとして6代目山口組、神戸山口組、絆会、池田組と4組織が暴力団対策法に基づき指定暴力団とされている。国内の指定暴力団は25組織のため、このうち4組織を山口組系が占めるという奇妙な事態となっている。
一和会の弱体化…会長自らの引退と組織の解散
山口組をめぐってはかつて4代目組長の座をめぐり史上最悪の暴力団抗争とされた「山一抗争」が起きた。4代目組長に竹中正久が就くことを不満としたグループが離脱して1984年6月、一和会を結成したが、分裂したことで対立抗争状態となった。
分裂後、最も暴力団としての暴力性がむき出しになった事件が1985年1月に発生した。竹中と若頭・中山勝正ら3人が大阪府吹田市で一和会系のヒットマンらに一度に射殺されたのだ。被害の大きさに山口組側の巻き返しは激しく、猛反撃を受けて一和会は衰退を始めた。
一和会の勢力は当初、約6000人とされたが、途中で有力な組長らが組織を離脱するなど弱体化し、最後はごく少数となった。いつ襲撃されるか分からぬ状態となり、一和会会長の山本広は自宅軟禁同然だった。山口組に対抗することを断念した山本は1989年3月、自らの引退と組織の解散を兵庫県警に届け出た。
対立抗争の終わりはいつなのか?
その後、山本は神戸市内の山口組総本部を訪れて謝罪した。仲裁には稲川会などの有力組織が活動したとされている。山口組はこうした経緯をたどり5代目体制となっていく。山本は引退から約4年後の1993年8月に68歳で死去した。警察庁によると、山一抗争では317件の事件が発生し双方で25人が死亡するといった事態を招いた。
山一抗争当時の事情を知る指定暴力団の古参幹部は、今回の6代目山口組分裂抗争と比較して次のように指摘した。
「山一抗争の際には最終的に有力なほかの組織の大幹部が仲裁に動いた。今回は、巨大になり過ぎた6代目山口組と神戸山口組の双方に収束に向けて強力に仲裁に入る人物がいないのだろう」
混沌を極めた現在の対立抗争。終わりが見えるのはいつなのだろうか。(文中敬称略)
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