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恩師が語る、ヤクルト・小澤怜史がサイドスローでプロ初勝利を挙げた理由

文春野球コラム ペナントレース2022

2022/07/06

19失点が小澤の運命を変えた

 人生、何がきっかけでどう転ぶか分からない。少なくとも、スワローズが19失点の大敗を喫したことで、幼なじみに二十数年ぶりに連絡を取ることになるとは、思いもよらなかった。

 ヤクルトが本拠地の神宮球場で行われた巨人戦に5対19で敗れたのは、6月25日のこと。その翌日、ソフトバンクからヤクルトに移籍して育成契約2年目を迎えていた投手の小澤怜史(こざわ・れいじ、24歳)が、急きょ支配下登録されたのである。もちろん育成選手の中で小澤が最も支配下に近い位置にいたからこそだろうが、そのタイミングでの登録には少なからず前日の大敗の影響があったと思われる。

 小澤は僕にとって、静岡県三島市立北小学校、北中学校の遠い遠い後輩に当たる。その小澤が支配下登録されて、僕の頭に真っ先に浮かんだのが小中学校の同級生だったハセガワくんである。「ハセガワくん」こと長谷川記一(はせがわ・のりかず)氏は地元・三島で、自身の父親が創設した少年野球チーム「リトルジャイアンツ」(通称リトジャン)の監督をしている。三島生まれ三島育ちの小澤は、そのリトジャン出身。つまりハセガワくんの教え子なのだ。

「いやぁ、普通だったよ」恩師が語る小澤少年

 ハセガワくんに話を聞くならこのタイミングしかない──。そう思い立ったものの、なにしろ最後に会ったのは二十数年前のことで、現在の連絡先が分からない。そこでたまたま神宮に観戦に訪れていた同じ小中の同級生の助けを借りて、なんとかハセガワくんの連絡先をゲット。少し緊張しながら電話をかけてみると……。

「おう、キクちゃん! 久しぶり」

 のっけから返ってきた明るい声に、ホッとすると同時に懐かしさが込み上げてきて、感覚的には一気に子供の頃にタイムスリップした。そこからは「取材」というよりも、2人きりの同窓会。そんなノリで“教え子”について語ってもらった。

「よく他のチームの監督さんにも『小澤くんはどうだったの?』とか聞かれるけどさ、『いやぁ、普通だったよ』って(笑)。もうホントに全然、普通の子。何か飛び抜けてっていうのはなかったけど、コツコツと一生懸命、努力を重ねてたな」

 小澤が1つ上の兄・拓馬さん(現・社会人パナソニック)と共にリトジャンの門を叩いたのは、小学3年生の時。当時、投手として才能を感じさせたのは兄の拓馬さんの方だったというが、長谷川監督は弟も投手として育てようと考えていた。

横から投げたがるも、キャッチボールでは上から放る

中学時代の小澤(前列左)と長谷川記一氏(後ろ)(長谷川氏提供)

「投げ方が綺麗だったんだよ、キャッチボールで。腕の振りも良かったし、肩も強かったからさ。ただ、怜史って横から投げたがるんだよ。キャッチボールでは普通に上から放るんだけど、遠くに投げようとすると横から放るわけ。で、5年生の時にアイツをレフトのレギュラーにしたんだけど、バックホームするのもサイドで放るからシュート回転しちゃって(苦笑)。それで『お前やめろ、それ。上から放れ』って直させたんだよね」

 長谷川監督の中には、小澤を正統派の投手にしたいとの考えがあった。サイドスローやアンダースローが悪いわけではない。ただし、小学生のうちはまずは上から投げる本格派のピッチャーとして育てたかった。そこで6年生になって投手をさせる前に、上手投げに“矯正”したのだが、これが功を奏する。

サイドをオーバースローに矯正した

「上から投げさせたら、ピッチャーでも綺麗なフォームで放るようになってさ。球も速いっていうか、回転が良くてキレがあったからね。それで結果的に高3で152キロ出たんで、オレは良しとしてるんだけど」

 中学時代は静岡裾野リトルシニアでプレーした小澤は、高校は長谷川監督の母校でもある日大三島高に進学。3年夏の県大会で自己最速の152キロをマークするなど速球派として注目され、ドラフト2位でソフトバンクに指名される。入団2年目の2017年には初の一軍マウンドにも上がるが、故障などもあって順風満帆とはいかず、育成契約を経て2020年限りで戦力外通告を受けた。

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