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2006年の胴上げで“26”を掲げた男が語る、中日・落合英二ヘッドが人望を集める理由

文春野球コラム ペナントレース2022

2022/07/19

 2006年10月10日、延長12回の激闘を制し、2年ぶりのリーグ優勝を果たした中日ドラゴンズ。歓喜の最中、胴上げと真逆のカメラを向き白いボードを掲げる男がいた。そこには、落合英二ヘッド兼投手コーチの現役時代の背番号である「26」が、はっきりと記されていた。

 ドラゴンズ一筋、28年。川上憲伸や岩瀬仁紀が「ゴッドハンド」と評する彼の名は、一軍トレーナー責任者の永田暁弘である。トレーナーの仕事はファンが見えない場所で始まる。誰よりも早く球場入りし、選手のコンディションチェックを手で触れて行い、怪我予防の処置を施す。時に、トレーナールームで抱える思いを聞くこともある。昨今のコロナウイルス対応も担当するのが、この「トレーナー」という仕事だ。目に映る選手の活躍があるのも、永田トレーナーをはじめとする支えがあってこそだと、ファン心で感じる。

2006年10月10日、2年ぶり7度目のセ・リーグ優勝を決め胴上げされる落合博満監督。右端が「26」を掲げる永田トレーナー

 彼がドラゴンズでともに戦ってきた仲間の中でもとりわけ関係が深い人物がいる。落合英二ヘッドである。

「僕たちが知り合ったのは星野監督二次政権の頃です。入団一年目でサファイアを肘に埋め込む大手術を受けた落合ヘッドは、思うように結果の出ない日々が続きました。それでも腐らず、状況を打破するために当時のキャッチャー・中村武志と一球一球の意図について話し合いを重ねて、結果を出していきました。そこに中村の治療で僕も同席しました。これがきっかけで、落合ヘッドとの日々が始まりました」

ドラゴンズの「投手王国」を作り上げた男

 勝つためにチームに尽力するトレーナーである永田と投手の落合英二は、いわば“同志”だった。そして、落合英二はチームの多くの選手に慕われていた。なぜ彼はまわりからこれほど愛されるのだろうか。

「落合ヘッドは、現役の頃から常にチーム・ファースト。進んで打たれた投手の元へ赴いて、『ここはこうだな』とアドバイスを送っていました。彼のことを、チームメイトは『精神的支柱』と口にしていましたね」

 可視化された結果が無ければ呼ばれない、それがプロの世界である。ただ、「見えない世界」が「見える世界」を支えることがあるのも、また事実だ。永田トレーナーは、岩瀬仁紀とのエピソードについて教えてくれた。

「岩瀬仁紀の初登板はほろ苦い物でした。顔色を無くして帰ってきた彼を、落合ヘッドはロッカールームで待ち、話しかけたのが二人の始まりでしたね」

 月日が流れ、日本屈指の抑えになっても、落合英二は話しかけ続けた。あまりにも偉大な選手になると、誰も声をかけられない。しかし、初マウンドからともに歩み続けた二人に遠慮はいらなかった。「切り替え」という高いハードルが求められる“守護神”を、岩瀬の性格に寄り添いながらふたりで一から作りあげた。

「胴上げ投手・岩瀬仁紀を育てたのは、落合ヘッドだと思います」

 では、なぜ落合英二は、そんなアドバイスをライバルとも取れる同僚ピッチャーに送ることができたのだろうか。答えは、本人の経歴にある。リリーフとして名を馳せる以前、サファイアが入った腕は思うように動かなかった。動いたと思えば今度は肘に水が溜まった。投手として苦労の日々を重ねた。

「彼が一番、投げることができる喜びを知っていましたから。『一軍のマウンドを踏めずに選手生命を終える人がたくさんいる中で、投げさせてもらえる喜びを感じて投げなさい』。この言葉を、いつも言っていましたね」

 辛酸を舐めてきた落合英二が放つこの言葉は、重みがあった。声をかけられた選手の目の色が変わるのを、永田トレーナーは見つめていた。

「当時のドラゴンズが『投手王国』と呼ばれるようになったのも、落合ヘッドがいてこそです。コーチは技術を教えることができるけど、同じ現役の投手だからこそ精神面で分かり合うことができた。僕は、そう思います」

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