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2006年10月10日、トレーナーが「26」を掲げた理由

 2006年、夏。ファンの見える場所に落合英二はいなかった。ルール改正により投球モーションの変更を余儀なくされ、精神的に追い込まれている様子を永田トレーナーは知っていた。季節は秋になり、グラウンドに「26」は居ないまま、優勝争いの火蓋が切られた。

 最後の一球は、岩瀬仁紀が投げたストレートだった。内角低めに決まった白球が、バットに当たりグラブに収まる。次々と駆け寄り、優勝の喜びを爆発させる選手たち。しかし、永田トレーナーは複雑な感情を抱えていた。

「僕は、ものすごく悔しかった。ここにいなくても、この景色を作ったのは落合ヘッドですから。なんとかして、胴上げに参加させたいと思って。選手というのは背番号への思い入れが強い。だから、『26』を掲げることにしました」

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 通路にあった紙に手を伸ばし、背番号を書き入れる。その様子を見た他のスタッフは、「首脳陣が呼んでいない選手の背番号を掲げれば、大目玉をくらう可能性がある」と止めた。しかし、永田トレーナーはブレなかった。

「このクビが飛ぼうが、もうどうでもいいと思いました。落合ヘッドがチームを強くしたことを、選手はみんな知っていましたから。でも選手にさせるわけにいかないので、その分の思いも込めてスタッフの僕は叫びました」

 カメラの向こうへ、こう叫んだ。

「エイジー! やったぞー!」

 ビジターのドラゴンズブルーに、白い紙はハッキリと映った。ホテルに戻ってすぐ、携帯が鳴った。震えた声だが、落合ヘッドだとすぐにわかった。

「本当にありがとう、と涙ながらに繰り返していましたね」

 永田トレーナーの予想を超えて、選手は動いていた。投手のほぼ全員、そして野手の一部が帽子のつばに「26」と書き込んでいた。目に見えない「チーム力」が、「優勝」という見える結果となって現れた夜だった。

「命を削って、一緒に頑張っていきたい」

 あれから16年。今年は、首脳陣としてドラゴンズに帰ってきた落合ヘッドと永田トレーナーがともに戦う初めての年である。

「首脳陣というのは、やはり人気が必要なところも多くあります。『名古屋の人々に忘れられる前に、早く戻ってこい』といつも言っていました。それでもエイジは、立浪監督に言われた『いつか監督をやる時は、一緒にやろう』の一言を胸に持って、パ・リーグや韓国で勉強をしてきたのです」

 動き出した2022ドラゴンズ。永田トレーナーは、ある選手についてこのように評した。

「彼は変わりました。今も1試合終える度に、強くなっています」

 ベテラントレーナーがこう語るのは、セットアッパーとしての地位を確立させた5年目右腕・清水達也投手のことだ。

「以前は登板前チェックの時も緊張していました。今は、ブルペンに向かうと勝負師の顔になっています。打たれることがあっても、その悔しそうな顔つきが変わったのです」

 永田トレーナーがドラゴンズを見つめる目は、仕事を超えた熱量を持っている。それは、最優秀中継ぎのタイトルを持つ“同志”との歴史があるからに違いない。

「今度は首脳陣とトレーナーという立場で一緒に戦える。試行錯誤の日々は続いていますが、『強くて勝てるドラゴンズ』のために一肌も二肌も脱いで、命を削って、チーム全員で頑張っていきたい」

 野球はチームスポーツだ。「見える」選手の活躍だけではなく、監督、コーチ、トレーナーなどのスタッフ、そしてファンなどの「見えない」支える力とともに、一つの勝利を掴みとろうとする。今、ドラゴンズはチーム一丸となって勝利を掴みにいく。

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