私は過去を振り返っていた。
(記事前半は、もしかしたら「その選手の話はもういいよ」という方もいるかもしれません。そんな方は、後半だけでも読んでください)
わが家に、「2011西武」と書かれた1冊のノートがある。
私が以前にライオンズを担当していた2011年の、チームの戦いを記録してある。
と言っても、なんてことはない。日刊スポーツに掲載された、試合の「テーブル」(誰がスタメンで何打数何安打だったか、本塁打を打った選手、試合時間や観衆などが記されている、あれです)を毎日、スクラップしただけのものだ。
ツイッターにいただいた、一つのコメントがきっかけで、私はこのノートを棚から引っ張り出した。
「秋山がライオンズに復帰したら、何を書くか楽しみにしています」
6月20日ごろの書き込みだ。
秋山1年目の“不正確な記憶”
彼の日本球界復帰の経過は、今さらここで書くことではあるまい。
とりあえず私は、フォロワーさんからの期待に応えたいと思い、何を書こうかと考え始めていたのだ。
11年は、秋山のルーキーイヤーである。私はこの年限りでライオンズ担当をいったん離れたため、彼のプレーを毎日のように見ていたのは、この1年だけだ。
記録ノートのページを繰りながら思った。
人間の記憶とはこんなにもあいまいなものなのか、と。
私の記憶は「秋山は1年目からバリバリのレギュラーで3割近い打率を残した」というものだった。
しかし、実際は違った。右翼手として開幕スタメンこそ勝ち取ったが、打てずに苦しんだ。シーズン中盤は1軍にいない時期もあった。最終的には110試合に出場して、打率2割3分2厘に終わっている。3割近く打ったのは翌12年だった。
ではなぜ、私の記憶は「バリバリのレギュラー」なのか。ノートをめくり、ある日にたどりついた。
9月8日である。
これだけでピンとくる人は、すさまじいライオンズマニアだと思う。
この日は、秋山が初めて「中堅手」として先発出場を果たした日だ。
それまで不動の中堅手だったのは栗山巧。この年も144試合に出場し、3割以上の打率を残している。
当時、栗山は紛れもなく、チームの「ど真ん中」にいる選手だった。
野球には古くから「センターラインを固める」という考えがある。捕手、二塁手、遊撃手、そして中堅手。ここを守る選手は不動のレギュラーとして固定したい。そんな考えの指導者は少なくないだろう。
たしか、栗山のケガかなにかが一つのきっかけだったような記憶はある。
とにかく、9月8日を境に栗山は左翼手に回り、前日まで試合に出たり出なかったりだった秋山は、中堅手としてシーズン最終戦までスタメンで出続けることになった。
栗山がいるのに、中堅を秋山が守った。この事実が私に不正確な記憶を植え付けたのだと思う。
そんなことを考えながら、秋山が西武に復帰したときのことを考えた。