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 この「社説は」という表現は、社内のほかの部署はともかく「私(社説)はずっと五輪に小言を言ってきたのだからね」というアリバイを主張しているように読めた。中止を求める社説を出したけど「別に遅くはないんだからね」という行間をビリビリ感じた。

「社説は」という表現に隠された心理とは?

 ほかにも「社説は」という言葉づかいは、五輪関連の社説でよく登場していた。

《社説はパンデミック下で五輪を強行する意義を繰り返し問うてきた。》(2021年7月23日)

《社説は4年前、法律や条例の対象外である組織委にも、文書管理を徹底して国民への説明責任を果たすよう求めた。改めて念を押しておきたい。》(2021年8月7日)

「社説は」という自称が出てくるときは、つまり「感情」があふれ出ているとき。五輪関連の社説によく登場したということは、次のように考えられないか?

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 朝日は五輪のスポンサーやってるけど、どうなんだよという世間の視線に対して「いやずっと前から私(社説)は小言を言ってますから」というアピールに懸命だったのだと。

 こんな読み方は意地悪でしょうか?

 そして今回の五輪組織委員会の「報告書」に対する他人事感あふれる社説です。

 私はマスコミが五輪のスポンサーになった意義に関する「報告書」もぜひ読みたいのです。お待ちしてます。