「もし革ジャン着て歌ってたら…」
それでも芹澤には絶対に売れるという確信があったようだ。事実、翌1984年1月に2枚目のシングル「涙のリクエスト」がヒットするや、一緒に売れ出した。さらに5月に「哀しくてジェラシー」がリリースされると、当時の人気音楽番組『ザ・ベストテン』で4週にわたってこれら3曲が同時にランクインという快挙も達成する。
プロになるにあたりビジュアルも一新した。それまでのメンバーの格好はといえば、髪型はリーゼント、衣装も革ジャンや黒のダボダボスーツを着たりしていた。それをデビューを機に、バンド名に合わせて全身チェックの衣装をまとい、ヘアスタイルも両サイドを刈り上げて前髪を垂らす、いわゆるチェッカーズカットに改めたのだ。こうしたビジュアルもあいまって、チェッカーズは若い女性から人気を得ることに成功する。藤井いわく《もし革ジャン着て歌ってたら、あんなに女の子たちにキャアキャア言われなかったと思う》(※3)。
このようなイメージづくりを主導したのは、クリエイティブディレクターの秋山道男を中心に集まったスタイリストの堀越絹衣、ヘアサロン「Bijin」の本多三記夫、アートディレクターの奥村靫正といったクリエイター陣だった。当時はまだアイドルに専任のスタイリストやメイクがつくこと自体が珍しく、その点でもチェッカーズは先駆的であった。
デビュー以来、シングル表題曲の大半を芹澤廣明と作詞家の売野雅勇のコンビが提供してきたが、それも1986年6月リリースの「Song For U.S.A.」で区切りをつける。次の「NANA」(1986年10月、藤井郁弥作詞・藤井尚之作曲)以降は、メンバー自ら手がけるようになった。
円満とはいかなかった、解散の理由
こうして一時代を築いたチェッカーズだが、1992年、9年連続で出場してきた紅白歌合戦のステージをもって解散する。とはいえ、のちにメンバーの高杢禎彦が著書で暴露したように(※1)、そこにいたるまではけっして円満とはいかなかった。藤井も《解散の理由? ま、ひと言で言うと解散しなきゃいけないような関係にあったということです。解散に向けての一年間がいちばんつらかった。その後はバラバラで食ってかなきゃいけないという不安もあったからね》と、最近のインタビューで述懐している(※3)。