誰にも似ていなかった松田聖子
この時期2人組のアイドル、ピンク・レディーも小学生や若者を中心に人気を博し、レコードはもちろんグッズも絶大な売り上げを記録。派手なパフォーマンスに加えて、阿久悠氏と都倉俊一氏が手がける楽曲で独創的な世界を築き、70年代の歌謡界に大きな足跡を記している。
また70年代は、それまでの芸能界における渡辺プロダクション一社の独占的な勢いに対抗すべく、テレビ局や新興のプロダクションが中心となってオーディション企画も盛んに行われていた。山口百恵とピンク・レディーは、日本テレビの人気番組『スター誕生!』の出身。そこに続けと同番組で発掘された石野真子や、ホリプロ独自の「ホリプロタレントスカウトキャラバン」で見出された榊原郁恵も、その好例であろう。新世代のアイドルとして、石野真子も榊原郁恵も愛らしい存在感と健康美でお茶の間やグラビア雑誌の人気者になっていた。
しかし松田聖子は誰にも似ていなかった。
だが落胆する必要などない、その逆だ。歌手にとって、誰にも似ていないということほど最高の賛辞があるだろうか。芸能界を生き抜く上で何より重要な唯一無二の個性。もちろん当時もいまも、私はロジカルに時代を見ているわけではない。元来の直感人間である。誰かへの対抗馬を探していたわけでもなく、純粋に自分自身でプロデュースしたい、やりがいを感じる新人を発掘していただけだ。むしろ誰のことも意識していなかった。
ただ流行歌は常に時代へのアンチテーゼであり、誰かに似た存在で過去の成功をなぞってもヒットにつながらないことは重々承知していた。そんな80年代前夜ともいうべき時代の真っ只中で、私は松田聖子の歌声に出会い、強く惹かれたのだ。もしそのときの私にかけてやる言葉があるとしたら、「次々に新時代を切り開いていった聖子に、当初誰も振り向かなかったのは当然だったのだ」ということだった。
聖子からの4通目の手紙
ものづくりは既成の概念からはみ出すからこそ、面白いものが生まれ支持されていく。会社など日々のきっちりとした常識的な枠組みから逸脱しているからこそ、「芸ごと」は人々を魅了し大衆音楽が生まれるのだ。ならば、いい歌を作って広がりを持たせるには、中心にいる人間が強い意志を持って「新しい可能性」を信じ、押し進めていくしかない。
大抵の制作サイドの人間は見たことがある誰かに似た存在を選ぶが、それでは広がりは得られない。新しい可能性が理解されないのは多々あることで、逆にすごい潜在力を秘めているからこそ拒絶反応も起きるのである。少なくとも平尾昌晃さんは、聖子の歌を聴いてすぐに感じ取るものがあったわけで、それだけでもこの時点では大収穫だったと言えるだろう。
ちなみに聖子からの4通目の手紙はこの時期にもらっている。消印は3月14日。そこには、1月にわざわざ久留米まで来てもらったことへの感謝と、2月に福岡営業所で写真撮影を済ませたことが書かれていた。届いた写真はちゃんといい仕上がりだったでしょうか? と気にかけている様子で、手紙を読み終えると、私もすぐさま聖子に電話をかけていた。この時期は芸能事務所がなかなか決まらずに、私の電話の声も歯切れが悪かったかもしれない。歌手を不安にさせていてはプロデューサー失格である。
サンミュージック・相澤社長に懇願
次の朝、私は気持ちを切り替えてアドレス帳をめくっていた。相澤秀禎氏に連絡を取るためである。そう、業界でも一番アットホームで面倒見のいいことで知られる芸能事務所「サンミュージック」の創業者であり社長、相澤秀禎氏その人であった。
正直ほとんど面識はなかった。しかし、なんとか掛け合ってみるしかない。こんなときにも昔からのガッツが役立つ。私はここでも全く諦めてなどいなかった。営業時代に飛び込みで初めてのレコード店の手伝いをしたときと同じように。あるいは学生時代に東北旅行で、その日泊めてもらう家を探したように。ピュアな心持ちで門戸を叩く、それだけだった。