1980年のデビュー以降、日本の音楽シーンにおいて、トップアーティストとして輝き続けている松田聖子(60)。そんな彼女のデビューは、1本のカセットテープがきっかけだったという。

 ここでは、松田聖子の才能を発掘し、間近で支え続けてきた伝説のプロデューサー・若松宗雄氏の著書『松田聖子の誕生』(新潮社)から一部を抜粋。プロダクション探しに難航しながらも、松田聖子の“可能性”を信じ続ける若松氏の当時の想いを紹介する。

松田聖子 ©文藝春秋

◆◆◆

ADVERTISEMENT

「ああいう子は売れないんだよ」

 プロダクションの心あたりは、私の中にいくつかあった。

 まずは聖子に一度CBS・ソニーの福岡営業所まで行ってもらい、現地スタッフに写真撮影をしてもらうところからスタートしている。いわゆるプロモーション用の宣材写真の撮影だ。その写真と歌を吹き込んだテープを持って売り込みに行くのだ。

 最初に私が資料を持って訪れたのは、前年夏に一度聖子自身も顔合わせをしていたプロダクション尾木の尾木徹社長だった。あれ以来特にはっきりした回答はもらえていないままだったが、父親の許可がおりたことも改めて報告しなければならなかった。しかし、ほどなくしてNGの連絡が届く。

「若松さん、ああいう子は売れないんだよ。タレントとして華も感じられないしね」

 しかし私は、聖子は単に、尾木社長が考えるタレントの適性とは違うだけなのだと前向きに捉えた。もしかしたら断りづらくて時間がかかってしまったのかもしれない。まして原石の状態では、なかなか判別がつかないのも無理はない。

 こちらは歌で勝負するつもりでも芸能事務所としては様々な可能性を考えて、個性はもちろん総合的なバランスを重要視する。事務所なりに抱えるタレントのカラーがあるのは自然なこと。つれない言葉に落胆しつつも、私はすぐに切り替えて次の一手を考えた。

 そうだ! 平尾昌晃さんのヴォーカルスクールが博多にある。しばらくはそこに通って、平尾さんに歌のレッスンをしてもらうのがいいだろう。なんといっても平尾さんは作曲家としてレコード大賞やレコ大の新人賞を獲得した方。しかも、まさにこの時期大ヒット中だった私のプロデュース作『ぼくの先生はフィーバー』を作曲した人こそ、平尾さんだったのだ。聖子のポテンシャルを見てもらうには十分すぎる存在だった。