大統領専用機は嘉手納飛行場に降り立ち、その場でスピーチする様子や、オープンカーで一号線を南下、那覇に向かってパレードするシーンも残されている。沿道につめかけた人々の数は夥しいもので、米兵の警備はものものしい。OTV黎明期のエピソード集『テレビはじまりや』によると、この日、OTVはニュース撮影だけでなく、琉球政府の中にカメラを構えて中継をしたという。肝心のアイゼンハワーが来る前に電波が途切れるアクシデントがあったようだが、なんとか回復、無事放送を終了した。米大統領が沖縄に滞在していたのは、わずか2時間ほどにすぎなかった。
レトロな味わいのあるかまぼこ型のバスが悪路を走る映像もある。カットが変わると、満席の客が乗っている。バスを降りた老若男女が足を踏み入れたのは、沖縄南部にある洞窟(ガマ)である。沖縄戦で亡くなった人々を悼む慰霊巡拝の人々だった。当時、沖縄では今のようなリゾート観光などはなく、他県から来沖する人々の多くは、沖縄戦の遺族たちだった。
那覇市内にある開南小学校の様子もあった。子どもたちは、本土の教科書を使っているが、書かれている値段表示は当然ながら円である。先生が、年端もいかない子どもたちに円とドルの換算方法を黒板に図示しているのが興味深かった。
OTVアーカイブスにあった初期のフィルムには、当時の沖縄社会がくっきりと刻まれていた。
すべてが生放送
OTVが開局した時点で、全国ですでに開局していた民放テレビ局は、北海道から鹿児島まで30あまり。当時、ローカルテレビ局の放送を支える命脈が、「マイクロ波回線」だった。放送する番組をマイクロ波という電波に変換し、電電公社の施設を通して、他の放送局に伝達する仕組みを指す。この時点ですでに本土のどこの放送局も東京のキー局とマイクロ波回線で繋がっていて、東京制作の番組を瞬時に入手することができ、番組編成にさほど困ることがなかった。しかし、沖縄は本土から遠く離れたアメリカ統治下の島なので、鹿児島まで延びていたマイクロ波回線は、まだ到達していなかった。
いやおうなしに、テレビ番組は毎日東京からの空輸で運ばれてくるフィルムと沖縄で制作する生番組に頼ることになる。そのため、ローカル番組数が多く、20パーセントが自前で、準キー局(大阪のテレビ局)並みの制作量だったという。
OTVの当初の放送時間は、朝、昼、夜とわかれ、あわせて5時間だった。
夜の時間帯のメインは自社制作で、月曜は『リズムへの招待』という音楽番組、火曜は『職域対抗紅白芸能合戦』という視聴者参加番組。水曜はのちに『水曜劇場』と改称される舞台中継。木曜は視聴者参加のクイズ番組『アベック・クイズ』。金曜が、米国民政府・USCARの広報番組『人・時・場所』。土曜は郷土芸能の紹介番組『伝統の庭』。日曜が視聴者参加番組の『のど自慢』だが、これはNHKのものと違うようだ。やがて『日曜劇場』というドラマも始まる。
それらのラインアップの中でもとりわけ人気を集めていたが、水曜の舞台中継だった。