フィルムに刻まれた社会
那覇市内とおぼしき街頭に続き、人山が見えてくる。電器店なのだが、そこには「沖縄テレビ放送開始」という張り紙があり、人々が大型のブラウン管に群がり、釘付けになっていた。神妙な顔つきで画面を見つめる老婆が印象的だ。この頃、テレビ受像機は、沖縄全体でまだ2600台が出回っていたに過ぎなかったという。
テレビ開局直後の街の熱狂ぶりを、琉球新報はこう伝えている。「テレビをみる人たちは道路にあふれ、歩きもできないどころか身動きさえできないしまつで、やがてこれが交通の妨害にならなければよいがと案ずるほどだ」(1959年12月)。翌年1月の大阪毎日新聞はこう報じる。「那覇市内の数ヶ所の街頭テレビや店頭にテレビをおいている店の前は黒山の人だかり」。
放送開始からしばらくの間は、本土でもテレビ開局時に繰り広げられた光景が沖縄でも見られたのだ。この頃、ヤンバルの離島・瀬底島の中学生だったのちのNHKディレクター仲松昌次は、当時をこう回顧する。
「修学旅行で那覇に行った時、国際通りの一画で、人が溢れていたんです。電気店の前にテレビが置いてあり、プロレス中継をやっていたんです。で、それに夢中になって、帰宿時間が遅れ、先生に怒られたことを覚えています。その後、瀬底島にもこの『文明』はやってきました。とはいっても、最初の頃テレビは島全体で2、3台しかありませんでした。島一番の商店の店先のテレビに、夕方になると島中の子どもたちが群がり、時代劇などに一喜一憂しましたね。毎日が祭りのようでした。その時の興奮が、僕がテレビに進むきっかけになったのかもしれません」
デジタル化されたOTVの初期映像は、まだまだある。
あるフィルムには、野球の中継が映されていた。広いスタジアムに構えられたカメラはたった2台。これだけで野球全体をとらえるのは、さぞたいへんだっただろうと思われた。
アイゼンハワー米大統領の来沖の映像もあった。日米安保闘争さなかの1960年6月、当初、日本を訪問する予定だったアイゼンハワーは、安保改定反対の高まりを警戒し、東京行きを中止していた。しかし、フィリピンと台湾、韓国、そしてアメリカ統治下の沖縄には予定通り訪問していたのだ。東京のキー局としても、自分たちで予定していた撮影ができない分、沖縄での映像に期待が高まったという。そんなこともあり、OTVは、この要人来沖撮影に全力を注いでいた。