石垣島出身、テレビがまだ珍しい時代に生まれた元プロボクサー・具志堅用高。彼が人生で初めてテレビを見た瞬間、何を思ったのか?
当時の貴重なエピソードを綴った、NHK沖縄放送局チーフディレクター渡辺考氏による新刊『どこにもないテレビ』より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)
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NHKではない公共放送
子どもたちがぞろぞろと、会議室のような所に入っていく。彼らを迎えたのは、見覚えのある顔である。総理大臣の佐藤栄作だった。1965年8月に撮影されたフィルムだが、代表とおぼしき男の子がスピーチをし、それを殊勝な表情で受ける佐藤が映し出された。首相官邸での一コマであるが、残念ながら無音のため、やりとりが聞こえない。
川平朝清がこのフィルムの背景を教えてくれた。
「宮古八重山の小学生・中学生が上京し首相官邸を訪れ、こう陳情したのです。『テレビを見たい。台湾の蒋介石の顔は見るけども、佐藤総理の顔を見ることができません』。離島の人たちの気持ちを代弁した、いい殺し文句だったと思いますよね」
沖縄本島ではテレビ放送は始まったものの、本島から遠く離れた宮古や八重山ではテレビは映らず、テレビ局設立は島民あげての悲願となっていたのだ。
「佐藤総理は『では、先島にもテレビをつくろう。しかし誰が運営するかは琉球政府に任せる』と決意します。ですから、日本政府が先島のテレビ局を建設し、琉球政府が、その局の運営組織を作るという構想が出たわけですね」
新たな放送局の経営母体のあり方を迫られた琉球政府は、「沖縄放送公社」設立を目した。その内容は、琉球政府が出資し、総裁は琉球政府トップの行政主席が任命するという「官営放送」だった。そのことで猛烈な反対運動が巻き起こったのだが、この時に活躍したのが川平本人だった。
新たな放送局は、全面的にNHK番組の中継をすることが決まっていた。そこで川平は、松岡政保行政主席に施政権が返還される際にNHKへの移行を円滑に行うためにも、「放送公社」ではなく受信料収入をベースにした「放送協会」とすべき、と進言した。
川平は、さらなるアクションを起こした。この時、彼はRBCの要職にあったのだが、社長にこう直訴したのだ。