1ページ目から読む
2/4ページ目

「公共放送ができたら、私をそこに出して下さいとお願いしたんですよ。沖縄は公共放送の面では取り残された面があった。日本放送協会の存在感はゼロと言ってもいいくらいだったわけですよね。ですから公共放送ができるなら、協力したいと」

 背景には第一章で前述した兄・朝申の叶わぬ願いもあった。

「兄が抱いていた『沖縄に公共ラジオ放送を作りたい』という夢を、私がテレビで実現できるのではないかということで、私個人としてもひじょうに大きな思い入れがありました」

ADVERTISEMENT

 こうして1967年10月に設立されたのが、沖縄放送協会・OHKである。NHKと同じく受信料収入をもとに番組を制作する公共放送だった。初代の会長に任命されたのが、川平本人だった。

 OHK設立の翌月、佐藤首相とジョンソン米大統領が会談、日米両政府は共同声明を出し、沖縄の施政権返還の方針が決定した。返還のカウントダウンとともに、「まーにんねーらん」公共放送は船出したのである。こうして沖縄は、民放に加えて公共放送が共存する時代に突入した。

先島が先!

 OHK設立から20日後、宮古島で住民悲願のテレビ放送が始まった。開局特番が『のど自慢素人演芸会』だった。当時の沖縄タイムスには、視聴者の熱い反応が書かれている。

「茶の間でおばあさんや子どもたちがテレビにかじりつくように見入る。まばたきしない目、目。その顔には二十二年間の遅れを取りもどした、という満足感が出ていた」

 補足すると、「二十二年間の遅れ」とは、本土では、敗戦の年にすでに始まっていた公共放送(NHK)がようやく22年かかって宮古島でも実現した、という意味であろう。

 この日、開局式典が開かれ、日琉両政府の要人とOHK関係者が参加した。USCARのアンガー高等弁務官や日本政府の八木総理府副長官も臨席した。

 沖縄県公文書館に、その時の写真が残されている。壇上にあげられたテレビモニターを前に、スーツ姿の人々がずらっと並んで鎮座している様や、整列したスポーティーな制服姿の女学生たちが、バトンを持って宮古放送局の前を行進している様子があった。前述の沖縄タイムスはこう記す。「沿道には小・中学生がずらりと並び、日の丸や『テレビありがとう』『祝宮古放送局』と書いたプラカードをふって歓迎した」。

 川平はくったくのない笑みを浮かべながらこう語る。

「すごい歓迎ぶりでしたね。パレードですよ。みんな旗を持って、ありがとうというね。離島の人たちが待ちに待ったテレビだったと思いますね。その感激を、私はほんとに肌に感じましたね」

 この式典で児童代表がこう述べたという。

「テレビが見られるようになり胸がいっぱいです。わたしたちはこのテレビを活用して、りっぱな日本人になります」