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 翌日、宮古島に引き続き石垣島に八重山放送局が開局した。「テレビありがとう、日本復帰ができたらなあ」などのプラカードをかかげた学童たちの祝賀パレードがあったという。

「テレビの人間だ」と歓迎されることも

 RBCからOHKに移籍し、開局時の宮古、八重山両放送局に勤務した謝名元慶福はこう回顧する。

「村の広場みたいなところに行きますとね、『テレビの人間だ』と喜んで大歓迎されました。ちょっと話をしただけで『ぜひテレビに出させてください』というふうに、どこでも協力してくれましたね。それぐらいテレビへの関心が強かった」

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 宮古でも八重山でもテレビ受信機の普及は早かったようだ。謝名元はこう続ける。

「島じゅうが、大人も子どももテレビに憧れていて、OHKの番組を見たいという気持ちが強かった。テレビは高かったけど、大金を払って買っていた。家々を訪ねると、でっかいテレビがドンと、一番大きないい場所を占拠してね、立派な家具みたいな感じでしたね。これはすごかったですね。大きなテレビのある家には、隣近所の人が集まって、みんなで見る状況だった」

 マイクロ波回線は、まだこの時点では先島までは繋がっていないため、沖縄本島で収録されたNHK番組が南西航空を介して空輸された。そのためニュースはだいたい半日遅れで、朝のニュースが昼に、昼のニュースは夜に流された。

 最大の難敵が台風だった。

「飛行機が飛ばないとフィルムが運べない。すると新しい番組が出せない。だから台風があると、たまたま放送局に残っていたフィルムを掛けることになる。それが何日も続くことがあったから、文句も言われましたよ」

 一部の情報番組は自前で作られた。謝名元は、お手製の番組についてこう振り返る。

「すべて自分ひとりでやらないといけませんでした。琉球政府の出先機関、それと各市町村の役場に行って、地域の話題を取材して、それをもとに原稿を書き、撮影をし、現像して、ナレーションまで自分でつけて放送しましたね」

 待ちに待ったテレビ番組を島に暮らす人々はどのように見ていたのか。私の頭に、まっさきに思い浮かんだのは、石垣島出身の「我がアイドル」の顔だった。