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 だが、試合が追われて追っての展開となると、一度は右翼に下がった阪上が再びマウンドに上がった。このとき新澤は、「左投手のほうが打てる自信があった」と語り、言葉通りの結果を残した。

「1試合しかないけど、『ここで勝てば次は2回戦もある』という強い気持ちを持って戦おう」

 試合前、馬淵はベンチ入りした選手全員にこう話した。たった1試合しかないのだからという理由で、思い出作りにすることは考えていなかった。いつもの甲子園と同じように、勝つことにこだわった。「甲子園は最高の技術、最高の精神力、最高の体力をぶつけあう場」だという考えに基づくものだ。その結果、最後の最後まで追い詰められながらも、感動的な逆転劇につながったのではないかと、馬淵は後になって分析している。

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 たしかに甲子園の雰囲気はいつもと違った。それはまぎれもない事実であった。5万人の大観衆の声援や、ブラスバンドやチアガールの姿もない。交流戦でベンチに入れなかった部員はアルプススタンドではなく、ベンチ後方の上から2段目、選手の家族は最上段からマスク姿で声を出さずに拍手だけで応援している。両チームにとって、無観客の甲子園はなんともたとえようのない、不思議な雰囲気だったに違いない。

 だが、馬淵は球場の雰囲気と勝負は別物だととらえていた。

明徳義塾・野球部監督の馬淵史郎氏(写真:筆者撮影)

「試合が始まったら、勝って校歌を歌おう」

 そう言って、実際に勝ってベンチ前で明徳義塾の校歌を聞いたとき、いつもの年と同じように格別な気持ちになった。この年は甲子園で戦えるのは1試合のみ。勝っても負けてもこの試合でこの年の3年生の夏は終わる。それだけにどうしても勝って、ホームベース付近で校歌を歌うという感動を選手たちにも体験してほしかった――。馬淵の当時の偽らざる思いだ。

無念のセンバツ中止

 交流試合からさかのぼること5ヵ月前の3月11日。日本高野連は8日後に開催される予定だった第92回選抜高等学校野球大会を、新型コロナウイルス感染症の感染拡大の影響を重く見て、開催中止とした。連日報じられるニュースを見ては、「ちょっと厳しいかな」と感じていたが、いざ中止が現実のものとなると、甲子園で優勝することを目指してこれまで必死に頑張ってきた選手たちにどういった言葉をかけるべきか、馬淵は悩んでいた。

 前年の秋、明徳義塾は高知県大会と四国大会で優勝、明治神宮大会では準々決勝で優勝した中京大中京に0対8で敗れたものの、センバツ出場は間違いなかった。それだけに明徳義塾初となるセンバツ制覇に向けて、冬の厳しい練習を乗り越えてきた。

 だが、センバツ中止となったことで、すべてが水の泡となってしまう。ポジティブなことを言えなければ、何かを恨むようにネガティブなこともおいそれとは口に出せない。

 馬淵は短い時間で熟考した結果、ありのままの現実を話すことにして、選手全員を集めて開口一番こう伝えた。

「残念ながらセンバツは中止になった。けどな、四国大会を優勝してセンバツに選ばれたことは胸を張ろう」