「多数決は挙国一致でありますまい」
「吉野さん」のモデルとなったのは、戦前に青山学院や陸軍大学校で教えた岡田哲蔵(1869-1945)。キリスト教思想を研究すると同時に、海外では『万葉集』の英訳などの詩作で知られていた。生前最後の2年間、世田谷で戦時下の町会長を務める姿が、中野の脚色を経て記録されている。
中野が住む地区の町会長として描かれる「吉野さん」は、リベラリスト(自由主義者)を自任する老紳士だが、反軍的な人ではない。日清・日露戦争では通訳として軍に協力し、少佐相当だったと噂されることから、防空演習でも軍人に一目置かれている。
しかし吉野さんは時局に関わる政治判断でも、「最大限の選択肢」には釣られない。あくまで法的な根拠があるか否かで、国の要請に応じるかを決める。戦費に回すための貯蓄が同調圧力で強制されそうになった際の、吉野さんの冷めた対応を、中野はこう描写している。
吉野さんは、町会長のうちでもいちばんの年寄りだったから、役人たちも弱った。
とうとう都の代表者が、「重々ごもっともです。〔法的な根拠がないのは〕おっしゃるとおりで……ただこれは、挙国一致の案件でございまして、吉野先生以外の方にはおおむねご賛成願っておるのでございますから。多数決ということもございますし……」というようなことを言ったところ、吉野さんが開き直って、「多数決は挙国一致でありますまい。」とやったため座が白けたという話だった。
戦争中の日本でも吉野さんが孤高を貫けた理由は、なんだろう。中野はこの随想で二つ、手がかりを示唆しているように思う。
まず、吉野さんには詩作という趣味があった。元共産党員として官憲から監視される半面、戦前に発表した小説で知られていた中野に、自作の英詩を渡して交流を持とうとする。
空気に従わない姿勢が右翼から睨まれ始めていた吉野さんに、最後の子供まで徴兵するとの通知が届き、町内は緊迫する。しかし出征式の日、吉野さんはわざと難解な自作の詩(日本語)に自分の真情を託すことで、衝突を回避する。
今春刊行した拙著『過剰可視化社会』でも論じたように、「見た人は誰もが必ず一様に、同じ感情を抱くべきだ」とする発想でなされるコミュニケーションは、容易に同調圧力に転ずる(プロパガンダが典型である)。そうではない私秘的な会話の作法を知っていたことが、戦時下でも内面の自由を守った。
次に、吉野さんとは正反対の個性の持ち主も、相まって彼とともに地域を支えたことだ。典型は前任の町会長だった、竹内という人物である。
竹内は生活物資の調達に辣腕を振るうやり手だが、常に自分が一番多くせしめるエゴイストだった。そのため副町会長に降格されたものの、清廉さの裏面で融通が利かない吉野町会長の下では「副町会長が悪人で助かっている点もある」との住民の声を、中野は拾っている。
戦後の著名人で喩えるなら、さしずめ吉野さんは丸山眞男で、竹内は田中角栄だろうか。欠点も含めてさまざまな種類の人間が、互いに不満や摩擦を抱えながらも「排除」だけは最後までしなかったことが、中野が属する共同体の強さにつながっていた。
これに対して80年近く経ち、新型コロナ禍なる「擬似戦時下」にある私たちの現状は、どうだろう。
誰もがマスクをしているといった「見ればわかる」対策からしか安心感を得られず、人それぞれの体質や感受性には配慮しない。SNSでも「自分への賛同以外あり得ない」という態度で発信し、異なる反応を示すアカウントを見つけたら、集団で潰そうとする。
コロナでの過剰自粛に対する違和感を、人文的な教養に基づき発信した識者はごくわずかだ。国民生活への影響が甚大な緊急事態宣言にはもろ手を挙げて同調しながら、「反体制的知識人」のメンツの問題に過ぎない国葬にのみ強がって異を唱える姿は、滑稽を通り越して哀れですらある。
なんとも情けない、終戦から77回目の夏。そんな時こそ、ほんとうの困難に立ち向かい、あるいは潜り抜けた人たちの姿が、静かに胸をよぎる。