コロナ禍で、明確なエビデンスもなしに「自粛要請」が繰り返される日本。「緊急事態宣言」も、本来あるべき「議論」を経ずに、何となく「空気」を読むように発出され続けている。こうした「議論ができない日本人」を問題視する歴史学者の與那覇潤氏と文芸批評家の浜崎洋介氏の対談を掲載する(この対談は、ジュンク堂書店池袋本店での「與那覇潤書店」の開催を機に、2021年6月11日、「店主」の與那覇氏が浜崎氏を招く形で行なわれた)。

緊急事態宣言に「飽きた」日本人

與那覇 新型コロナウイルスへの対応をめぐって「国論分裂」といってよい状況にあるいま、本日(2021年6月11日)は浜崎洋介さんと「日本人はなぜ議論ができないのか?」「いつからできなくなったのか?」について、じっくり考えたいと思っています。浜崎さんは文芸批評家という「ことば」のプロであると同時に、特に戦後文学に強い「歴史家」でもあるということで、お招きした次第です。

與那覇潤氏

 意見が異なる人とも、どこで意見が食い違っているのかを見極めながら一歩一歩、対話していく。そうした姿勢が「意見が分かれてしまう問題」に対しては求められるはずなのに、日本人はこういう「議論」が非常に下手ですね。

ADVERTISEMENT

浜崎 「議論が下手である」以前に、そもそも「議論をしない」という感じすらしますね。

與那覇 コロナで興味深かったのは、これまでの3回(対談時点)の「緊急事態宣言」に対する人々の反応が、それぞれに違っていたことです。

 1回目の時(2020年4月~5月)は――浜崎さんも僕もこの時点から「過剰対応」だと判断していましたが――、「コロナは怖い! 宣言に従うのは当然!」という反応が圧倒的でした。

 対して2回目(2021年1月~3月)では、「宣言を出す前に、1回目の宣言は本当に効果があったのか。やり過ぎだった部分がないのかを検証すべきだ」という声がそこそこ上がった。だから僕はむしろ、「お、ここから日本人も『議論』を始めるのでは?」と少し期待していたんです。

 ところが3回目(2021年4月~6月)の宣言では、民意がもはや「この宣言は本当に妥当なのか? しっかり議論しよう」というフェーズを飛び越えて、「つきあいきれねーから、黙って無視しようぜ」という感じになっています(笑)。まさに「議論しない日本人」「議論できない日本人」を象徴するようでした。

浜崎 正確に言っておくと、僕は1回目の冒頭から反対したのではなく、「4月末まで」と言われていたのが、「5月も続けます」と延長されたところで、反対の声を上げたんです。まずは、編集委員を務める『表現者クライテリオン』のメールマガジンで、その後は、雑誌や新聞のコラムで「過剰自粛」批判を書き続けました。

 2回目の緊急事態宣言の時も、世間の空気が「自粛」の方に流れていたので、緊急事態宣言に対する疑問を書いたのですが、ただ、3回目以降は、あまり書かなくなりましたね。単に呆れたということもありますが、與那覇さんがおっしゃったように、世間が宣言を「無視」しだしたので、わざわざ言うまでもないかなと(笑)。

與那覇 1回目の宣言の最中には「非国民」のように言われた我々の感覚が、いまやむしろ国民の多数派になっていますからね(苦笑)。

知性がないことがバレた大学教授

浜崎 ということもあって、その頃から批判の優先順位を変えて、対面授業を行なっている小中高に対して、大した根拠もなくリモート授業を続ける大学を批判しはじめることになります。学生のことを考えると、そこが緊急を要する論点だろうと。

 しかし、普段は「議論が大事だ」と言っている「知性主義者」ほど、コロナに関しては「議論」を拒否して、「自粛」に固着しましたね。その点、「知性があれば議論ができて、反知性主義者は議論ができない」という彼らの嘘がバレました。

浜崎洋介氏 ©文藝春秋

 確かに「議論」に「知性」は必要ですが、しかし、その前提には、互いに「主体」として認め合っている共同性がまず必要なんですよ。その共同性が人の「心理」や「感情」を支えているという事実があるわけですが、それらを軽視してきた「知性主義者」ほど、今回のコロナ禍では、「心理」や「感情」に足をすくわれたように見えます。

與那覇 「大学の先生は浮世離れしているかもしれないけど、でもその分、世俗から一歩距離をとって冷静に思索できる人なんだ」という、知性主義の幻想は崩壊しましたね。彼らの圧倒的多数は、「実のところは大衆(民意)に迎合しきっているのに、単に売れてない人」でしかないと見抜かれちゃった。

浜崎 実は、それで思い出すのが、大学のゼミでの議論です。ゼミでは、「保守」とか「リベラル」といった思想的・政治的立場に関係なく、学生たちに何でも自由に「議論」してもらうことを心がけているんですが、そこで、渋谷でのハロウィンパーティーが話題になったことがあったんです。

 それで僕が「ああいう騒ぎ方はどうなのか? 孤立感をまぎらわすだけの刹那的な快楽主義にしか見えない」と言うと、ある「意識の高い」男子学生が、「先生、それは違う。価値観は人それぞれだから、別にいいと思いますよ」と。そこで僕が、「なるほど、じゃあ、僕の言う『あの騒ぎ方は不快だ』というのも一つの価値観なわけだよね」と問うと、「いや、違います。価値観は多様だからハロウィンパーティーがあってもいい」と。

 こういう堂々めぐりを3回くらい繰り返して、最後は「ふざけんな!」となったんですが(笑)、要するに、「議論」するには、「知性」より以前に、相手の言ったことは無視しないとか、そういう当たり前の作法が必要なんですよ(笑)。「相手に自分を開こう」という他者への「信頼感」が「議論」の前提としてあるということです。

 でも、それこそ「気持ちの余裕」から生まれるもので、自分が「安心」できないうちは、やっぱり他者に自分を開くのは難しい。

與那覇 「コロナは怖い!」という不安に囚われてしまった瞬間、「海外と比べたとき、日本の感染者数や死亡率は全然低いんですよ」という数値を示されても、冷静に見れなくなってしまう。自分が感じる恐怖感に沿ったデータしか、頭に入ってこなくなるということですね。

浜崎 おっしゃる通りです。現在(6月11日)、緊急事態宣言下にある東京の病床使用率は3割程度です。医療逼迫が深刻だった大阪はやむを得なかったとしても、東京を宣言の対象にする必要はあるのか。なぜ3割程度で「緊急事態」なのか。しかし、こう口にしただけで、「お前は人を殺す気か!」と言われてしまう。

議論のポイントは「自分を開く」姿勢

與那覇 先ほどおっしゃった「相手に自分を開く」というのは、すごくいい言葉だと思うんです。つまり自分の意見はあっても、「違う意見でも聞くよ」とか、「聞いた上で、自分の意見が変わることもあるかもしれない」といった態度ですね。

「俺は正義の側にいる。よって悪には屈しない!」といった態度の人は、そもそも自分を開いていない。その点でいうと、特定の思想や宗教へのコミットが弱い日本人って、本来は「開かれている」人が多かったんじゃないかと思うんです。ただし、それが「議論」という形をとらない点に問題がある。

與那覇潤氏『平成史』

 

 たとえばですけど、その「ハロウィンは多様性だ」の学生に対しては、ゼミの後の飲み会でフォローとかはしたんですか?

浜崎 ちゃんと飲みに行って、丁寧に揉んであげましたよ(笑)。

與那覇 ゼミや職場の公式の会議では、まったく自分の意見を変えず「開かれない」。しかしその後の酒席では、ざっくばらんに打ち解けて「開かれる」人というのは、大人にも結構いますよね。そういう「開かれ方」が、日本人の特殊性かもしれません。

浜崎 ゼミでは開かれなくとも、飲み会では開かれるのは、飲み会の場には、一つの「共同性」があるからですよね。「自分はここの場所にいていい、受け入れられている」という安心感。ゼミの場は、どうしても成績(単位)のために集まっているというよそよそしさがあり、「言うと浮いちゃうかな」とか、「カッコつけなきゃ」という自意識が拭えないんですが、飲み会では、目的から解放された安心感がある。

與那覇 なるほど。「優秀なメンバー」を演じないと周囲から敬意を持たれないような人間関係と、「単なる飲んだくれ」でも別にええやないかと互いに思える人間関係との違いが、効いてくるわけですね。

浜崎 それで言うと、エーリッヒ・フロムが『愛するということ』(紀伊國屋書店)のなかで言っているのもそれで、フロムが言う「善」というのは、「他者とカップリングする力」のことなんですよ。他人を愛し「安心」をつくる力です。だから、その反対の「悪」は、他者との共同性を破壊する力、「孤立」と「不安」を誘うネガティブな力だということになる。

 でも、そうなると、人間は「孤立」を回避することに必死になって、「議論」どころではなくなってしまうんです。そして、三つの回避案に向かっていく。

 1つ目は、「祝祭的興奮」。前近代ならお祭りなんでしょうが、近代以降は、アルコールやドラッグやセックス依存など、「刹那的快楽に逃げる」ことになります。

 2つ目は、「集団への同調」です。前近代なら、自他を超えた「伝統」があったんでしょうが、近代以降は、単なる画一主義に向かう傾向が強くなります。

 3つ目は、「仕事」。「創造的な仕事に打ち込むことから生まれるやりがい」です。でも、これも近代以降は、単なる取り換え可能な「労働」になりつつあります。

與那覇 フロムの専門は社会心理学で、『自由からの逃走』(東京創元社)というファシズム分析でも知られています。たとえばナチズム下のドイツが採用したのは第2のアプローチで、「俺はこの党の一員だ!」という画一的な一体感を国民に与えることで、「孤立」を解消させていた。

浜崎 その通りです。そして、その究極版が、「支配と服従の全体主義」なんですね。フロムは、それを「サド/マゾ」関係に例えるんですが、要するに、サド(支配者)は、服従者を自らの一部に取り込むことで、自分の孤立感を癒やし、マゾ(服従者)は、支配者の一部になりきることによって、自らの孤独感を癒やすんです。

浜崎洋介氏『三島由紀夫――なぜ、死んでみせねばならなかったのか』

與那覇 DV(家庭内暴力)などでも、被害者の側が殴られることに「相手から必要とされている」といった生きがいを見出してしまうと、むしろそこから抜けられなくなってしまうんだそうですね。

浜崎 その意味で言えば、コロナの「同調圧力」を利用してサディスティックに振る舞っている小池百合子東京都知事も、どこか「孤独」に見えませんか(笑)。

與那覇 彼女は「旬」な政治勢力を軽やかに渡り歩いてきたようでいて、大宅賞を受賞した石井妙子さんのノンフィクション『女帝 小池百合子』(文藝春秋)を読むと、むしろこれほど一貫して「孤独な政治家」がいるのかと感じますよ。