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なぜ「居酒屋自粛」は危険なのか

浜崎 ただ「孤立」しているのは、僕らも同じであって、この約30年間、新自由主義によって共同体や中間団体は掘り崩され、人々はますます「孤立感」を抱えるようになっています。そこにコロナ自粛の不安が加わって、さらに「孤立感」が深まっている。

 ということは、「孤立」を脱したいという潜在的欲求も高まっているはずで、それが悪い形で発揮されれば、「支配と服従の全体主義」の呼び水になる可能性もあります。実際、オリンピックは、「祝祭的興奮」のために利用されていますよね。

 その点、いま、僕がとくに問題だと思うのは、「自粛」によって、社会学用語で言うところの「サードプレイス(第3の場所)」が潰されていることです。

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「ファーストプレイス(第1の場所)」としての自宅や、「セカンドプレイス(第2の場所)」としての職場や学校とは違って、「サードプレイス(第3の場所)」というのは、要するに、目的なしで集まれる「居酒屋」のような場所ですね。

與那覇 そこがまさに「自粛の標的」にされていると。つまり「別に目的もなく来ていた場所なら、閉鎖してもいいだろ?」という風に扱われてしまう。

浜崎 そこが標的になると、まさに「不要不急」によって他者と社交していく場所が潰されることになるわけですから、人々の「孤立感」は深まっていく一方です。

與那覇 そもそも「飲食店が感染拡大の主因だ」というエビデンスを、1回も政府は示していない。「酒の提供をやめるのが対策だ」とか言ってる専門家は、ドリンクバー付きのファミレスに行ったことがないんでしょうね。ソフトドリンクだけで中高生や地元の高齢者が、毎日何時間も喋りまくってることすら把握してない(苦笑)。

 3回目の宣言ではなぜか、「百貨店も高級品売場は閉めてください」ということになりました。しかし高級品売場っていつも人っ気がなくガラガラで、ただし稀に来る客が1回に数十万~百万円単位のお金を落とすから、ペイしてますという世界でしょう? 地上で最も「密」から遠い業態なのに、そこを閉めるのが対策だという。

浜崎 そういう当たり前の「常識」すら通用しなくなっていますね。

與那覇 ぶっちゃけた話、政府や専門家にとってもウイルスなんかどうでもよくて、ウイルスの流行によって人々が溜め込んだ「ストレス」の方が怖いんでしょう。その矛先が自分に向かないように、「いやいやみなさん、叩くなら『飲んでるやつ・贅沢してるやつ』の方を叩いてください!」と必死に誘導している(失笑)。

「感染症対策」の仮面を被って、「感染症とはまったく関係のない何か」が社会を覆っている感じがします。

飲食店での「飲み会」を自粛し、帰宅するよう呼びかける区の職員ら

浜崎 「政治的に企図されたもの」というより一種の「集団ヒステリー」なんでしょうが、意識的なものではないだけに余計に厄介です。この閉塞状況を打ち破るには、堂々と飲んで、「安心」して見せるしかない(笑)。

飲み会だけでは「議論」にならない

與那覇 僕も、飲み会的な場所で生まれる「信頼感」や「精神的なゆとり」こそが社会に不可欠だと思って、1回目の宣言下からずっと「不要不急の外食はやめましょう」といった自粛には反対してきました。

 しかし一方で考えないといけないのは、「飲み会でのおしゃべり」が本当に「議論」につながるのかという問題です。

浜崎 「おしゃべり」自体は、「議論」とは違いますからね。

與那覇 民俗学者だった宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)の冒頭に、有名な「対馬の寄合」の話が入っています。フィールドワークに来たヨソ者の宮本さんに「村の古文書を見せてあげてもいいか」を、どうやって決めるかというと、夜通し飲みながらあーだこーだ話しあって、みんなが疲れてきたあたりで「ここまで話しあったんだし、いいじゃないの」的にOKを出すんだと。

 宮本常一は、これを「日本的な意思決定のあり方」として捉えています。こうした寄合では、酔いつぶれるやつ・寝るやつ・途中で帰るやつ……がいて、誰も話を全部は聞いてないし(苦笑)、そもそも脱線や雑談だらけ。しかしだからこそ、とりあえず「みんなで決めた」「俺だけが無視はされなかった」という感覚は残るし、意見がぶつかった人と翌朝顔を合わせても、気まずい思いをしないですむと。

 これはこれで確かに、長年同じメンツで暮らす村社会でも「なかよく」やっていく上では、合理的な慣行ではあった。しかし一方で、それって「議論なんですか?」と言われれば、そうではないですよね。

「神」も「宗族」もない日本は「地縁」で動く

浜崎 そこは、それぞれの社会の文化背景を考える必要がありますよね。

 例えば、ピューリタニズムの伝統が強いアメリカは、共同体から孤立しても、神とユニットを組むことで「自分を立てる」ことができる。それが、アメリカが、8~9割の人が何らかの神を信じていると言われるほどの宗教国家であるゆえんです。

 ヨーロッパでは、信仰を持っている人は3割程度で少ないんですが、その代わり、キリスト教は「文化」としての存在感を持っているし、個人を支える国家の力も強い。エマニュエル・トッドも強調していますが、ヨーロッパの「個人主義」は、実は「国家主義」によって支えられているんです。個人と国家は対立するものではなく、相補的に組み合って、大きな国家の公共福祉によって個人も自立できるんですね。

 で、中国はと言えば、まさに與那覇さんが『中国化する日本』(文春文庫)で書かれているように、「血縁」を重視する「宗族システム」がある。どんなに落ちこぼれた個人でも、「宗族」に寄食すれば、何とか食いっぱぐれることはないだろうと。

與那覇潤氏著『中国化する日本 増補版 日中「文明の衝突」』

「神」とユニットを組むアメリカ、「国家」や「文化」とユニットを組むヨーロッパ、そして、「宗族」とユニットを組む中国。それらに対し、日本はどうなのか。日本人がユニットを組むのは、「地縁」で、要するに「地域共同体」なんですよ。

與那覇 おっしゃる通りで、江戸時代には檀家制度が徹底されたから、形式的には日本人はみな仏教徒になったわけですが、結果としてヨーロッパに先んじて宗教の形骸化が進みました。要するに「冠婚葬祭や、地域の集まりごとに場所を提供する」のがお寺の役割になって、近代以降の市役所や公民館と変わらなくなった。

 一方で村の内側で生活が完結したから、江戸時代は庶民にとって、日本全土を統一する「国家」の存在感は稀薄でしたね。そうしたあり方は、コロナワクチンの接種も地元の自治体に丸投げで、政府が直接管掌できない今日まで続いています。

浜崎 だから日本は、ヨーロッパよりも国家が強くないんですが、ということは、「地域共同体」や「中間団体」が崩れた時に一番弱いのは日本人だと言うことにもなりかねない。残りの手札は、サードプレイスとしての居酒屋くらいしかない(笑)。

 事実、歴史学者の阿部謹也は、「日本人の生活を支配し、日本の特異性をつくってきたのは『世間』だ」と言っていますが(『「世間」とは何か』講談社現代新書)、僕自身もマンションの理事長を務めた時に、まさに宮本常一が描いているような「日本型合意形成」を経験しましたよ(笑)。理事のなかで一番若かったので、「こんな若いやつに任せて大丈夫なのか?」と、お爺ちゃん、お婆ちゃんが絡んできて本当に面倒だったんですが、結局、会議室を借りて、皆で飲むしかなくなるんですよ(笑)。

與那覇 21世紀に入っても、「村の寄合」をマンションでやるわけですね!

浜崎 そう、現代の東京23区内の都会でも、対馬の「寄合」と同じで、2、3時間も飲みながら話すと、「ここまで飲んだんだから、あんた信頼するわ」となって(笑)。