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「わきまえない」ことはマイナスなのか?

與那覇 今年2月に森喜朗さんが失言で五輪の責任者を外れることになり、彼が口にした「わきまえる」という言葉が逆に流行したりしました(笑)。飲み会的な交流を通じて生まれる信頼感は、確かに相互に自分を「開いていく」ことにつながる。ただ、それは議論して結論を出すというよりも、互いに「わきまえましょうよ」と、そういう方向に作用していくわけですね。

東京五輪組織委員会会長を辞任した森喜朗氏 ©文藝春秋

浜崎 確かに、そうした流れになりがちですよね。

與那覇 結果として、いまの日本では奇妙なことが起きていると思うんですよ。

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 まず一方の極に森さん的、村の寄合的な「わきまえる」関係を自明視して暮らす人たちがいる。彼らは、飲み会でだらだらやれば「最後は一つにまとまる」と思っているので、飲んだ後でも違う意見を主張し続ける人を「わきまえないやつだ」として叩いてしまう。これでは、異なる意見どうしの議論は育たない。

 ところがもう一方に、前者への苛立ちから「進んだ欧米ではこうなんです。これがグローバルエリートがもう出している正解で、世界標準と違う日本人はオカシイ!」と決め込んでしまう人たちがいますね。どことは言わないけど意識高い系のネットメディアと、大学に多い(笑)。しかしこれもこれで、最初からひとつの答えを決め打ちするだけだから、やっぱり議論にはつながらない。

 いわば「日本の伝統派」と「欧米の最先端派」の双方が、それぞれ別のやり方で「異なる意見を発信しやすい社会」を潰している。そうした構図があるような。

浜崎 『歴史なき時代に』(朝日新書)で、與那覇さんは、「どんな人であれ他の誰かに依存しながら生きていく。ただし、その依存のしかたには良し悪しがある。〔……〕鍵になるのはやはり主体性。本人の主体性を賦活して、自立の方向へと徐々に傾けていく、そうした再出発のための安心できる『基地』としてなにかに依存するのは、ポジティヴだから大いにありだと思う」と書かれていますね。繰り返すようで恐縮ですが、やっぱり、この「安心できる基地」というのが鍵になるんじゃないかと。

「叩かれたくない」と怯えて自分に閉じこもるのではなく、「叩かれてもいい」と踏み出して議論できるのは、それ以前に、「自分自身を無条件で承認してくれる場所=安心できる基地」がどこかにあるからですよね。それが必ずしも物理的な場所である必要はないですが、その「基地」が多いほど、自由に「議論」が展開できる。

 実際、歴史を振り返ってみれば、冷戦下の左右の対立が激しい時期でも、今よりは、よほど「議論」は自由だったし、主体性もあったように思うんですよ。

與那覇 「この人たちだけは何があっても、自分の味方になってくれる」という安心感があるからこそ、敵対する側ともそれなりに付き合えた面がある。「どうにもお互いわかりあえませんが、しかし、それぞれに支持者がいるんですから」と。

 しかしいまは左右対立の構図が崩れた分、論点ごとに誰が敵で誰が味方か、目まぐるしく入れ替わり続けるような状態です。だから安心できる基地がなく、あらゆる争点で「俺が潰されるか、お前をブッ潰すかの二択だ!」となってしまう。

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文藝春秋

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「新型コロナ」と「議論ができない日本人」