2020年春に新型コロナウイルスの流行が始まって以来、3度目の「同調圧力とともに迎える夏」である。

 ウイルス自体は「強めの風邪」に近いところまで弱毒化し、政府を支える専門家からも「指定を5類相当に変更し、インフルエンザと同様に扱おう」との提言が出てきた。しかしかつて彼ら自身が誇大に煽った不安のために、炎天下の屋外でも多くの人がマスクを外さない光景が続いている。

コロナ禍では要請ベースの自粛が求められた

国葬は「弔意を国民に強制する」?

 加えて7月に起きた安倍晋三元首相の暗殺事件が、もうひとつの暗い影を落としている。政府は早々に9月の国葬実施を決めたものの、「弔意を国民に強制する同調圧力を招かないか」との批判もあり、いまのところ民意は二分された状態だ。

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 意外に思われるかもしれないが、人によっては「過剰」なものに見えるコロナ対策と国葬の決定過程には、共通の力学が働いていたと私は考えている。

 当時から何度も批判してきたが、安倍氏が首相だった2020年2月のコロナ禍初期、多くの識者は当初「政府が強権的に対策を進めるのは危険だ」と主張していた。しかし同年3月半ばにコロナに対しても緊急事態を宣言可能にする法改正がなされるや、同じ面々は「なぜ政府は宣言を出さない!」と叫び始める。

銃撃され、急逝した安倍晋三元首相 ©文藝春秋

 むろん同じ月に、欧州諸国がロックダウンに踏み切ったことの影響はあったろう。しかし冷静に感染者数を比較すれば、日本は本来焦る状況にはないとの指摘は当時、すでになされていた。

 つまり防疫上の意味は皆無だったにもかかわらず、なぜあのとき日本人は、自らの自由や権利が制約される対策(緊急事態宣言)を望んだのだろう?

 一言でいえば、それが取れるかぎりで「最大限の選択肢」だったという以外に、理由はないと思う。

 緊急事態宣言を発令するオプションが法的に可能となったにもかかわらず、それが「使われていない」という状況が、多くの人を不安にした。とにかくそのカードを切り、「やれるかぎり最大限のことはやりました」という体裁をとってくれないと、気持ちが納得できない。