1978年、仮想の「クーデター」計画

 1年間延期されて始まったオリンピックのさなかに、皇帝のいない八月が、また来る。

『皇帝のいない八月』 発売=松竹

 『皇帝のいない八月』は、1978年の日本映画である。もし1970年に三島由紀夫が発した檄に、自衛隊の一部が応えていたら――。そうした歴史のifを描く、わが国には珍しいクーデターもののサスペンスだ。推理作家の小林久三の原作を、『白い巨塔』など社会派の娯楽映画で知られた山本薩夫が監督している。

 作られた時期が時期だから、正直、特撮に相当するシーンはいささか淋しい。しかし作る側も見る側も「歴史を生きていた」時代だったからこその、はち切れんばかりの熱気が全体に籠っている。ビジュアルが圧倒的でも政治映画としては空疎だった平成末期の『シン・ゴジラ』(2016年)とは、ちょうど正反対の作品だと形容すれば、雰囲気が伝わるだろうか。

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 タイトルは、戦前回帰派の自衛官が劇中で起こすクーデターの作戦名から採られたものだ。皇帝がいないとは「慕うべき神格化された天皇が消えた」という趣旨であるとともに、日本の政治には結局「確たる意思決定者がいない」との意味でもあったろう(この後者の主題も『シン・ゴジラ』と共通で、ただし日米関係の掘り下げ方の深浅が異なる)。

「左右」が生ぬるく共存した戦後昭和の穏和さ

 登場する架空の総理大臣は、佐藤栄作と三木武夫を足して二で割ったような食わせ者で、これといった思想もないのに人事を操る妙だけで政権運営をしている。しかし実際に与党を牛耳っているのは、岸信介と田中角栄の融合と思しき別の実力者で、秘かにクーデター派と内通している(演じるのは佐分利信だが、彼はもともと容貌が角栄に似ている)。

與那覇潤氏 ©文藝春秋

 一方で作戦成就後の制圧対象として「革新自治体」と「左翼文化人」が名指しされていたように、この時代はまだマルクス主義の野党や識者が力を持ち、世論への影響では時に与党を凌ぐものがあった。保守派が解釈改憲によって設けた自衛隊の存在が徐々に容認されつつも、しかし憲法論争では護憲派が常に優勢だったように、どこにも完全なる権力の独占者がいないことで生ぬるく諸勢力が共存する体制が、戦後昭和の穏和さを支えていた。

 もちろん令和のいま、冷戦構造を背景としたクーデターが日本で起きることは考えられない。しかし眼前に展開する「二度目の東京五輪」は、当時と同様に皇帝がいないままの日本の惨状を、余すところなく私たちに見せてくれた。