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 それでも「左右の硬直したイデオロギーに縛られてきた、戦後よりはましだ」と感じるのは、たぶんなにも考えていない人である。冷戦下の大きなイデオロギーが衰退する代わりに、平成期にネット社会へと根づいたのは、多種多様な「小さなこだわりや趣味」がそれぞれに原理主義化して、SNSで相互に「異端者狩り」を繰り広げる惨状(*7)だった。いつ、誰から「お前の嗜好はわれわれと違う」として吊し上げられるかを予測できない分、昭和よりもタチが悪いとさえ言える。

ありえた未来は「過去」に探そう

 はたして、戦後の行き詰まりから出立した私たちの現在地は、ここでしかありえなかったのか。私は、そうではないと思う。

©JMPA

 1978年の『皇帝のいない八月』でクーデターの鎮圧にあたるのは、若く優秀だがコンピュータが解析するデータしか読まない内閣調査室長(高橋悦史)と、戦前以来の軍歴を持ち泥臭い諜報に精通する陸自幕僚(三國連太郎)だった。両者の力関係が崩れることで作品は悲劇的な結末を迎えるが、戦争の記憶を失ったことによる目下のコロナ禍の惨状は、とうに70年代から予見されていたのだ。

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 作中でクーデター派が切り札とするのは、爆薬を装填し鉄路を走るミサイルと化した深夜特急「さくら号」だった。その乗客には、戦後の庶民を代表する車寅次郎こと渥美清がおり、戦前のソ連亡命の実話で知られた岡田嘉子がいる。

 決起部隊の指揮官に扮した渡瀬恒彦の、楯の会を憑依させたような怪演が有名だが、その妻役でヒロインの吉永小百合がいつもにも増して美しい。しかしその「美しさ」が、絶えず左右のあいだを情緒的に揺れ動くという意味での「戦後民主主義の象徴」たる役柄から発されている点に、この映画の最大の皮肉が込められている。

「歴史を生きた人たち」こそを相互理解のモデルに

 メガホンをとった山本薩夫は、1972年には錚々たる革新自治体の首長と並んで総選挙のポスターにも出演した、日本共産党の闘士だった。しかし映画の中では、決起した右翼将校たちの狂気を描きつつも、その純粋さが孕む危うい美学をこれ以上なく捉えている。

 ともに戦前から続く「歴史を生きている」からこそ、真っ向から対立する相手の実存をも理解しうる、そうした回路がかつてはあった。そして、そのように生きた人びとの言葉は、歴史がとうに機能しなくなった今日にあっても、なお書物の形で読み解かれるのを待つだろう。

 東京五輪閉幕の2日前に世に問うことになった拙著『平成史 昨日の世界のすべて』は、そうした半世紀前から響く「過去の声」に耳を澄ますことで、もういちど私たちにとって「ありえた未来」を探そうとする試みだ。この国にもはや皇帝がいないのであれば、私たちはいかなる主体を、自らのモデルとして生きるべきなのか。

 当否は、読者に委ねるほかはない。しかしその答えも、書中に記したつもりでいる。

(*1)https://www.asahi.com/articles/ASP6751QBP67UTFK00W.html
(*2)https://www.yomiuri.co.jp/politics/20210625-OYT1T50411/2/
(*3)https://dot.asahi.com/dot/2021072700020.html?page=1
(*4)https://www.jiji.com/jc/article?k=2021072600890&g=pol
(*5)https://www.tokyo-np.co.jp/article/118738
(*6)https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12
(*7)https://webronza.asahi.com/national/articles/2021032600009.html

平成史―昨日の世界のすべて

與那覇 潤

文藝春秋

2021年8月6日 発売