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大衆社会に「皇帝」は要らない?

 新型コロナウィルスの流行もあり、この春までは五輪に対する民意が「中止か延期」に傾いていたことは、ご記憶の方も多いだろう。しかし複数のIOC幹部が「日本政府に開催拒否権はない」と公言し、6月7日には菅義偉首相までが国会で「私自身は〔東京五輪の〕主催者ではない」(*1)と答弁している。自らは皇帝ではございませんと、宣言するに等しい振る舞いともいえる。

 一方で6月24日には宮内庁長官が会見で、天皇が五輪開催による感染拡大を「ご懸念、ご心配であると拝察」していると述べて波紋を呼んだ。あくまでも「私の受け取り方で、陛下から直接そういうお言葉を聞いたことはない」(*2)とも添えていたように、現行憲法下では天皇に政治行為はできない。五輪反対派の憤懣が皇室批判へとつながらないよう、憲法が許す瀬戸際で保険をかけたわけだが、いずれにせよ、天皇もまたこの国では皇帝たりえない。

 平成期に定着したSNSと、近日欧米から流入したキャンセル・カルチャー(*3)の相互作用もあり、五輪開幕の直前まで運営組織からの離職者が続いたことも世界をあきれさせた。去るのが当然の例・過剰反応と思われる例の双方があったとはいえ、クローズドな場での発言や10年以上前の振る舞いであっても、検索で掘り起こされて火がつけば無傷ではありえない。

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©JMPA

 そうした大衆社会の究極形の下では、世間の評判に左右されない「強い意思決定者」としての皇帝モデル自体が、もう(民主主義と両立する形では)なりたたないのだろう。

 7月23日に行われた開会式では、天皇が読み上げる開会宣言の途中まで、菅首相や小池百合子都知事が着席していたことがネット上で不興(*4)を買った。しかし旧著『歴史がおわるまえに』(317頁)にも写真を引用したが、1964年の昭和天皇の開会宣言の際にも周囲は着席しており、別に座っていたこと自体が「不敬」なわけではない。

 むしろ「起立か、着席か」程度の簡易な決まりごとすら、事前にルールを定めて合意をとり執行できない、そこまでこの国の中枢の意思決定能力が落ちていたことにこそ、私たちは衝撃を受けるべきなのだろう。

五輪憲章に対しても「解釈改憲」

 その天皇の開会宣言では、定例では開催を「祝い」と述べる部分で「記念する」と発声したことも注目された。意思決定する皇帝としての権能が否定された後も、大衆の反感を避ける責務からは逃れられない現状に適応しようとする、私たちの君主の涙ぐましい努力である。