幻に終わった手塚専属計画
創刊に当たって「サンデーは大金を積んで手塚治虫を専属にしようとした」という噂が根強くささやかれている。「有名な伝説だけど本当の話なんだよ」と豊田は打ち明ける。
「学年誌の伝統がある小学館では、そのブランドを壊してはいけないんですよ。“親に買ってもらえる雑誌”でないといけないわけ。すると、デッサンの悪いマンガ家は使えない。インテリジェンスはあればあるほどいい。そして、とにかく面白くなければいけない。
そうなると絞られるよね。手塚治虫、横山光輝、寺田ヒロオ。この3人を『サンデー』の柱にしようというのが僕の結論だった。手塚はすでにピークを過ぎていたけど、いちばん人気があるマンガ家だったし、彼の“マンガの質”は小学館に合っていると思ったんです」
実際、「サンデー」には創刊号から手塚の『スリル博士』と寺田ヒロオの『スポーツマン金太郎』が載っている。「少年」(光文社)に連載された『鉄人28号』で注目を集めていた横山光輝も、すぐには無理だったが、近い将来の連載は約束してくれた。2年後に始まり、全国の少年たちに忍者ブームを巻き起こした『伊賀の影丸』である。
最大の問題は当代ナンバーワンの売れっ子である手塚治虫に、いかにして週刊連載を引き受けさせるかだった。
「マガジン」初代編集長の牧野は言う。
「当時のマンガ家にとって週刊誌の連載というのは未知の世界でしょう。月刊誌なら
月に1本だけど、週刊誌は月に何本も描かなければいかん。仕事を頼みにいっても躊躇する人も多かったですよ」
月刊誌は1回当たりのページ数が多いが、月に4冊出る週刊誌の方がトータルのページ数は多くなる。とりわけ後の『ブラック・ジャック』のような一話完結型になると、月に4本の作品を描くことになる。仮にページ数が同じであっても、こちらの方が負担は大きいだろう。多くのマンガ家が二の足を踏むのも無理はない。
まして当時の手塚は「少年」の『鉄腕アトム』をはじめ、『ぼくのそんごくう』(漫画王)、『リボンの騎士(双子の騎士編)』(なかよし)、『スーパー太平記』(少年画報)、『お山の三五郎』(小学三年生)など、豊田が会いに行った1958年秋の時点で10本前後の月刊連載を抱えていた。ほとんどの児童雑誌に描いていた、といっても過言ではない。そのうえ週刊連載などできるわけがない。
どうしても手塚を「サンデー」の看板にしたかった豊田は、彼の毎月の原稿料を計算し、その金額で専属作家にしようと考えた。
つまり現状の原稿料を保障する代わり、「サンデー」以外の連載をすべてやめてもらう、という前代未聞の策だ。自身の月収をも上回る破格の専属料を見せられた相賀徹夫社長も、にっこり笑って許可したという。
結局、豊田の申し出は断られた。