「有名な伝説だけど本当の話なんだよ」――1950年代後半、週刊少年サンデー創刊にあたって画策された「手塚治虫専属計画」はなぜ失敗に終わったのか?
当時の貴重なエピソードを取材し集めたライターの伊藤和弘氏による新刊『「週刊少年マガジン」はどのようにマンガの歴史を築き上げてきたのか? 1959ー2009』より一部抜粋してお届けする。(全3回の1回目/#2、#3を読む)
◆◆◆
「週刊少年サンデー」誕生秘話
現在、小学館といえば講談社、集英社とともに日本を代表するマンガ出版社として知られる。ところが意外なことに、1950年代の小学館にはマンガを中心とした子ども向け雑誌は存在しなかった。フラッグシップである「小学一年生」から「小学六年生」に至る学年誌にいくつかマンガは載っていたものの、あくまでオマケ程度の扱いだったらしい。
取材時、やはり傘寿を過ぎていた豊田(豊田亀市。小学館・元雑誌部次長)は「マンガを中心とした雑誌を出すことで、傑出したマンガ家を育てる。それを学年誌で使おうという野心があったんです」と話し始めた。
「学年誌のマンガは面白くなかった。以前から、もっとマンガに力を入れるべきだと考えていました。講談社の社風である“健全な娯楽”という要素を小学館にも取り入れる必要がある。そこで1958(昭和33)年の夏、当時の相賀徹夫社長に『マンガを中心にした少年週刊誌を出したい』と言うと、驚いたことにその場で企画が採用されたんです。さすが社長、と感心しましたよ」
マンガの伝統を持たない小学館が、遅まきながら少年誌に切り込んでいくには他社にない武器が必要になる。思い悩んでいた豊田にひらめいたアイデアが当時の週刊誌ブームだったという。
それまで小学館がマンガに力を入れていなかった理由のひとつとして、集英社の存在も大きかった。もともと集英社はエンターテインメント部門の本を専門に出版するために作られた小学館の子会社である。この頃は社員さえ小学館から出向しており、独自の定期採用が始まるのもこの翌年の1959年になってからだった。そのため当時の集英社では、学年誌よりもマンガが多く、娯楽色の強い「おもしろブック」や「少女ブック」を出していた。
前例のない“マンガを中心とした子ども向け週刊誌”だが、二の足を踏んだ牧野と対照的に豊田は成功する自信があったという。エンターテインメントを任せていた集英社に「週刊少年サンデー」の企画を持っていかなかった理由を聞くと、「いかに兄弟会社とはいえ、ドル箱を渡せないでしょう」と不敵な笑みを見せた。
「僕が『小学六年生』の編集長をしていたとき、2~3歳下の部下に長野規(『週刊少年ジャンプ』初代編集長)がいたんですよ。『誰か集英社に出せ』と言われ、マンガに強かった彼を出してしまったのは僕のミス。『サンデー』を創刊したとき、小学館に残しておくべきだった、と後悔しました」