が、断ったのは専属契約だけ。なんと手塚はすべての連載を続けたまま、さらに前人未踏の週刊連載を引き受けたのだ。
「偉いと思ったな。手塚のプライドは金じゃない。連載の本数なんですよ。もっとも広いエリアで、もっとも人気がなければならないと。天才ならではの野心だね」
「天才ならではの野心」
専属契約を断った手塚は、代わりに「週刊誌はサンデーだけ」と豊田に約束したらしい。それでも「少年マガジン」創刊号には「手塚治虫探偵クイズ」というページでクイズを出題し、挿し絵を描いている。また、「マガジン」第2代編集長を務めた井岡芳次によると、「サンデーには内緒で『快傑ハリマオ』を手伝ってもらった」という。
創刊2年目の1960(昭和35)年から始まった『快傑ハリマオ』は、初期の「マガジン」を代表するヒット作のひとつだ。原作は山田克郎、作画は手塚の弟子筋に当たる石森章太郎(後に石ノ森章太郎に改名)だった。
まず原作の台本を手塚に渡し、ネーム(コマ割りをしてラフな絵と台詞を入れた下書き)を入れてもらう。そこに石森がペンを入れ、完成原稿に仕上げた。「サンデー」の手前、「名前を出さない」ことが手塚の出した条件だったという。
ネームを書く、というのはマンガを描くうえで極めて重要な作業だ。人気絶頂だった頃の赤塚不二夫はネームまでを書いてペン入れはアシスタントに任せていたというし、後年の本宮ひろ志も自分でペンを入れるのは「人物の顔だけ」と公言している。ペン入れ以上にクリエイティブな工程であり、決して片手間でできる仕事ではないだろう。
なぜそこまでして、と思わずにいられない。常にアンケートの順位を気にし、何歳になっても新人をライバル視したなど、手塚には大家らしからぬ幼児性が感じられるエピソードが多い。あらゆる雑誌に描きたい――。そこには確かに「天才ならではの野心」もあったのかもしれない。
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