太平洋戦争が終結して、今年で77年になる。明治維新を経て誕生、20世紀半ばに向かって拡大を続け、そして崩壊に至った大日本帝国。
その栄枯盛衰を、世界的な絵はがき収集家ラップナウ夫妻による膨大なコレクションを題材に読み解いていったロングセラー『絵はがきの大日本帝国』(二松啓紀著)より、当時の日本の“思惑”を見ていくと――。以下、一部を抜粋して引用する。
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“ロシア人の街”だった満鉄の特急「アジア」の終点
昭和初期の日本人にとって、満鉄の特急「あじあ」の終点「哈爾濵(ハルピン)」は人気の観光地であり、「東洋のパリ」と称された。元々は松花江沿いの一寒村に過ぎなかったが、ロシアが19世紀末期に都市開発を始めた。
ロシア正教会や駅舎、旅館、商店、百貨店などが次々と完成し、1920年代の人口は30万人を超え、ロシア革命とシベリア出兵の影響もあり、一時はロシア人が急増したため、住民全体の半数近くを占めたと言われる。満洲国が誕生してからもハルビンの絵はがきにはロシア人が登場する写真やデザインが多かった。
ハルビン中心部のキタイスカヤ街を描いた「行きかう人も忙がしき繁華なる十字街」ではロシア人の姿が目立つ。
ただし、建物に貼られたポスターを拡大して見ると、「松浦洋行」の名前が確認できる。松浦洋行とは日本系の百貨店であり、横浜の松浦商会の満洲国法人だ。1909年にウラジオストクからハルビンに拠点を移し、その建物は繁華街でも一際目立つ存在だった。ロシア人が闊歩する満洲の街に日本人の進出を物語る一枚だった。
満洲国の建国以降は日本人のハルビン進出が著しかった。1939年には人口46万人余のうち日本人が2万8000人余を数えた。
それでもロシア人の存在は際立つ。「郊外ピクニック露国人の団欒」は何気ない写真を絵はがきとする。ランチを囲みながら七人の男女が音楽を奏でている。川遊びの後なのか、手前右の男性は上半身が裸であり、その後方にタオルがかかる。日本人の間ではハルビンとロシア人を結び付けるイメージが定着していた。