「その内情は帝政ロシア時代の感覚をそのまま引きずった人たちの集まりだった」
こうした反共一色の主張はソ連当局にとって許し難い。元を辿れば同胞だから憎悪も強くなる。だが、発行元の白系露人事務局は関東軍の働きかけによって、1934年12月28日、ハルビンで設立された組織だ。
ソ連の秘密警察であっても迂闊に手出しができなかった。在満ロシア人は白系露人事務局への登録を義務づけられ、自治・行政機関としても機能した。
その内情は帝政ロシア時代の感覚をそのまま引きずった人たちの集まりだった。事務局の建物にはロシア皇帝ニコライ二世の肖像を飾り、ロシア帝国の三色旗を掲げていた。ハルビン特務機関(関東軍情報部)から「内面指導」を受けながら諜報活動や宣伝工作にも従事した。
ソ連から見れば「裏切り者」、日本から見れば「厄介者」。その間で揺れ動き、行き着いた先は…
とはいえ、日本・満洲・ソ連の三国を巡る関係が一貫していたわけではない。1935年3月に北満鉄道が満洲国に買収された時は日ソ間で友好ムードさえ漂った。その裏でソ連に引き揚げた北満鉄道のロシア人従業員が日本側の協力者と見なされ、大半が粛清されるか、収容所送りとなった。
また、満洲の国境線を巡り、日本とソ連は常に軍事的な緊張関係にあり、小競り合いが絶えなかった。1939年5月には戦争に匹敵するほどの紛争「ノモンハン事件」が起きている。
これが一転して、1941(昭和16)年4月13日の日ソ中立条約調印(5年間有効)に至り、日本・満洲・ソ連は表面上の友好国となった。
「反共」と「反ソ」を掲げた白系露人事務局の関係者を中心に在満ロシア人は微妙な立場に置かれてしまう。ソ連から見れば「裏切り者」、日本から見れば「厄介者」となっていた。
終戦後の満洲ではスターリンの巧みな宣伝工作が展開された。その結果、約2万9000人の在満ロシア人がハルビンのソ連領事館前に列を成したと伝えられる。希望を胸に抱いて帰国の申請手続きを行った。新しい祖国を信じて選んだ道だった。そんな彼らを極寒の強制収容所が待ち構えていた。
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