陸軍兵約3万人が死亡し、日本軍における「史上最悪の作戦」とも称されるインパール作戦。同作戦が失敗に終わった原因は、指揮した牟田口廉也軍司令官の誤判断によると指摘されることが多い。しかし、本当に彼のみに責任を帰すことができるほど問題は単純なのだろうか。無謀な作戦が推し進められる背景にはさまざまな人間の思惑が関係していた……。
ここでは、軍事研究家の関口高史氏の著書『牟田口廉也とインパール作戦~日本陸軍「無責任の総和」を問う~』(光文社新書)より一部を抜粋・再構成。豊富な史料をもとに検証した当時の裏事情を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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過去を振り返る人、未来を望む人
牟田口は第15軍司令官に就任した時、雲南、フーコン、アラカンの三方面から連合軍の大規模反攻の情報がもたらされ焦燥した。第15軍の任務は、中北ビルマ要域の安定確保である。当面の諸情勢を検討し、急迫した現状を打開するための方策を練った。そして片倉などは、21号作戦(編集部注:戦争の早期終結を期待して日本南方軍が東インドへの進攻を狙った作戦)準備に関しては拒止するような態度に出た牟田口が、ウィンゲート旅団の対応に頭がいっぱいで東インド進攻作戦のようなものは脳裏になかったのは明らかだったと感じている。それにもかかわらず、「在取旬日を出でずして、その脳底に東インドの一部に突入し、事変解決にまで持って行きたいとの構想を湧出させ、河邊方面軍司令官に状況を報告するとともに、これを決したのは全く不可解であった」との印象を抱いていた(片倉『インパール作戦秘史』)。
そのような状況の中、牟田口の頭に閃いたのが、日露戦争における沙河会戦の出来事だった。ここで活躍したのが当時第1軍の参謀として出征した福田雅太郎であり、牟田口が参謀本部部員(大尉)で勤務していた時の参謀次長だった。牟田口は、沙河会戦において圧倒的な戦力差があっても果敢に露軍を攻撃し、後退させた日本軍の戦いをビルマ防衛に適用できるのではないかと考えたのだ(牟田口「インパール作戦回想録」)。
それが攻勢作戦による連合軍の反攻策源地インパールの覆滅だった。牟田口は発案そのものはしなかったが、それ以降、自信を持って作戦の是非を語ることができたのである。
しかし、それは本来、ビルマ方面軍が考えるべきことだった。大本営の見積もりでは、三方面からの攻撃が連携して行われるため、方面軍を新編するとされていた。ではなぜ、そこまで牟田口は積極的だったのか。その理由の一つに、本作戦に対する強い思い入れがあった。