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77年、運命の夏

「中止せざるを得ないかも知れぬ」「この作戦は失敗だった」と会話を交わすも…日本軍が“インパール作戦”を推し進める一因になった“軍人のプライド”とは

「中止せざるを得ないかも知れぬ」「この作戦は失敗だった」と会話を交わすも…日本軍が“インパール作戦”を推し進める一因になった“軍人のプライド”とは

『牟田口廉也とインパール作戦~日本陸軍「無責任の総和」を問う~』より #2

2022/08/05
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 戦争初期に占領したビルマが連合国軍からの反攻ターゲットになると考え、ビルマを防衛するための攻勢防御として計画された「インパール作戦」。しかし、その作戦は無謀すぎる策、過信に基づいた誤った状況判断によって、あえなく失敗に終わり、多数の死者を出した。

 現在では「史上最悪の作戦」とも称される同作戦。なぜ無謀すぎる戦果に驀進する日本軍を誰も止められなかったのか。ここでは、軍事研究家の関口高史氏の著書『牟田口廉也とインパール作戦~日本陸軍「無責任の総和」を問う~』(光文社新書)より一部を抜粋。引き返せなくなった当時の日本軍の様子について紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

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日本軍の戦術の特色

 日本軍は「鵯越え(編集部注:鵯越え戦法とは、地形上の障害を利用して防御する敵に対し、敢えて地形の障害を含む予期しない方向より意表に出て奇襲する戦い方。メリットは、少ない兵力でも大きな成果を期待できること。デメリットは、機動障害の克服に困難を伴う場合が多く、一歩間違えると損耗が大きくなること)」という古来の戦法を主眼としていた。

 従って様々な困難を克服し、アラカン山系を深く突進、連合軍の意表に出て敵に対応の暇をとらせなければ、勝ち目を見出すことは十分に可能と日本軍は考えていた。

 対する英印軍は日本軍との接近戦を極力避けた。反攻開始後、航空機の掩護の下、中距離砲を主体とした約1万メートル離隔しての砲迫戦を行った。また砲迫火力に支援された優勢な戦車と歩兵部隊を展開させ、逐次に日本軍の陣地線を後退させていくのだった。ちなみに英印軍は一個中隊に対し、連日、3000発を超える射撃を繰り返した。そのため日本軍の中隊のほぼ全員が戦死することも珍しくなかった。

 一方、日本軍は最大射程6500から1万2000メートルの41式山砲、94式速射砲、94式山砲、91式10センチ榴弾砲、31式山砲、95式野砲、96式15センチ榴弾砲などを保有していたが、弾薬不足と敵の射撃から防護するため、約800から900メートルという至近距離で直接照準により射撃を行ったのである。