1ページ目から読む
3/4ページ目

 当面の敵である連合軍の英第4軍団は、主力をチンドウィン河西岸近くに推進している。日本軍は当初、この敵に強力な一撃を加え、果敢な突進により、敗走する敵と混淆しながらインパール平地に急追し、勝敗を決しようとしていた。河邊方面軍司令官も有利な態勢さえとれれば、それだけでインパール作戦は九分通り成功できると考えていたほどだ。牟田口は口癖のように「インパールは天長節までには必ず占領してご覧にいれます」と言っていたし、隷下各師団も約3週間分の食糧しか携行しなかったのも、そのような理由からだった。作戦そのものに反対していた片倉でさえも戦後、「(作戦が)実施される前までは、間違いなくインパールぐらいならとれる」と確信していたという(大田『インパール作戦』)。

第十八師団主要幹部(前列中央が牟田口師団長、その右が武田参謀長)

 ただし、この方面の雨季は5月下旬に始まり、6月に入ると本格化する。従ってインパール作戦を4月下旬には完了させ、その約1ヶ月後には新防衛態勢を確立し、本格的な雨季に備える準備を終わっていなければならなかった。

 また、牟田口は約3週間でインパール作戦の勝敗をつけると明言したが、高嶺が重畳するアラカン山中をいかに急進しても、インパールへ達するだけで少なくとも3週間はかかる。従ってインパール付近の英印軍はほとんど抵抗らしい抵抗もなく崩壊するという前提に立たない限り、牟田口の計画は成立しない。

ADVERTISEMENT

 この一見して無謀な判断へと走らせたものに、ビルマでの成功体験(編集部注:1942年5月、牟田口廉也が指揮をとり、中国軍・英印軍をビルマから中国あるいはインド国境へと撃退。敵を一掃する圧倒的な戦果をあげていた)があったことは否定できまい。しかし、それは牟田口だけのことではない。第15軍の高級参謀木下秀明大佐も、雨季に入ってもインパールが占領できないことなど考えてもみなかった、と述懐する(『戦史叢書15 インパール作戦』)。

 南方軍あるいは方面軍の参謀たちが終始、「作戦不成功」の場合を胸算して反対の立場をとっていたのとは対称的である。

見捨てられた現場

 さて秦次長一行(編集部注:当時の参謀次長)の話しであるが、彼らは5月5日から3日間、シンガポールで行われた南方軍兵団長会同に出席し、続いてスマトラ、ジャワの各地を視察した後、14日に帰京した。

 15日朝、杉田大佐は服部卓四郎作戦課長から、「南方軍の状況報告において、インパール作戦の前途に悲観的な見方をする大本営の参謀がいた」と非難されていることを知らされた。さらに服部課長は、参謀次長の参謀総長に対する視察報告についても、この点から何か考慮することはないかと確認してきた。杉田大佐は、報告内容を改める必要はないと答え、秦次長に対しても「インパール作戦は不成功と判断して間違いはない」と重ねて報告した。