やがて作戦室で、東條参謀総長に対する秦次長の視察報告が行われた。作戦室には参謀総長以下参謀本部(大本営陸軍部)の各部長、各課長のほか、陸軍省、兵站総監部の首脳などが多数参集していた。次長報告の結論は、インパール作戦の前途はきわめて困難であるというものだった。敢えて「不成功」という言葉は使わず、杉田大佐の意見より緩和した言い回しに変えた。
「この作戦は失敗だった」
しかし東條総長はこの報告に対し、「戦さは最後までやってみなければ判らぬ。そんな気の弱いことでどうするか」と大きな声を出した。秦次長は黙っていた。そして戦後になって、次のように述懐した。
ラングーンで河邊将軍と二人きりで懇談した。私は「いまの状態ではインパール作戦は中止した方がよいと思うがどうか」と切り出したところ、河邊将軍はハッキリと「中止したい」とは言わなかったが、「中止せざるを得ないかも知れぬ」といった口吻で語っていた。「この作戦は失敗だった」とも洩らしていた。
ビルマに行くまえ、南方軍で飯村穣総参謀長に会った時も私は「インパール作戦は中止したらどうか」と話した。飯村中将も私の申し出に同感するような話しぶりであった。
私は南方軍も方面軍もともに私の考えに同意したものと思い帰京した。帰って東條総長に報告したところ満座の中で叱責された。私は人々の前で総長と次長が口論しても……と思い黙って引き下がった。
後刻、別室で東條総長と私、後宮両次長の三人で話し合いが行われたが、総長は「困ったことになった」と頭を抱えていた。私は現地軍に対し、「作戦中止」の電報を打つべきではなかったか、と反省した。
しかしインパール作戦の成立経緯から、現地軍より作戦中止を具申させる方が筋は通る、と考え直し、何の処置もとらなかった。
このようにインパール作戦が成功しないという見通しは否定され、現地軍を督戦するだけに終わったのである。
秦次長の視察報告の翌日の上奏もそれを物語っていた。上奏では、インパール方面の作戦は停滞し、必ずしも楽観を許さないが、幸い北ビルマ方面の戦況は「大なる不安がない状況」のため、既定方針の貫徹に努力する、とされていた(『戦史叢書15 インパール作戦』)。だが、既に形勢は不利となり、作戦の成功の見込みはほとんどなかった。現地では文字通り地獄のような戦闘が続いていたのである。
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