このような戦闘が繰り広げられた背景には、日本軍の英印軍へ対する驕りもあった。それは日本軍の精神力をことさら強調する無形戦闘力への過信もあったが、マンダレーでの経験(編集部注:日本は積極的な進攻で北部ビルマ最大の要衝マンダレーを陥落させていた)に基づくものも大きく影響した。
その結果、日本軍は迂回浸透に続く夜襲、つまり白兵戦術に終始した。しかし英印軍はと言うと、日本軍が突撃を敢行するや、直ちに陣地を放棄して後退する。その後、陣地に進入した日本軍へ砲迫火力の集中射撃を行い、その後、ゆうゆうと奪回に成功するのだった。
日本軍は状況が変化していたにもかかわらず、所期の任務に固執した。また当初より時間の制約がある中、戦力が不足する状況下で作戦を遂行することを余儀なくされた。加えて敵に対する過小評価、逆に我の過大評価も見られた。日本軍の特色を総括すれば、戦闘力の質、量における優劣の差を克服できず、作戦に可能性を付与する兵站も十分に準備できず、さらに精神要素を重視する戦い方、特に奇襲などに軸足を置かざるを得なかった、となる。
インパール作戦で「鵯越え戦法」、つまり奇襲作戦を選ばざるを得なかった理由は、作戦環境が十分に醸成できなかったためであり、作戦基盤から可能性を付与される環境重視型軍隊とは状況が異なったのである。
無謀な作戦
多くの者は、これを無謀な作戦と見たのである。ところで牟田口には不安はなかったのか。いや、ないわけがない。ただ与えられた条件でやるしかないと肚を決めていたのではないだろうか。なぜなら牟田口自身、「普通一般の考え方では初めから成立しない作戦」と認めているのである。
しかし牟田口に、これ以上、達成の可能性を高めるための努力ができたであろうか。そもそも太平洋戦争は中国との戦争に必要な物資を南方で獲得しようとして始まったと言っても過言ではない。その宿縁はインパール作戦だけでなく、日本軍の戦いの至るところに暗い影を落とした。
それに対してインパール作戦において上級司令部等は、どのように作戦環境を醸成したというのか。可能性の付与についてまで具体的な対策を牟田口に任せた参謀は、自らの責任をとったと言えるのであろうか。それでもインパール作戦は牟田口の強い意志の下、開始されたのである。
その第15軍の策定した「ウ」号作戦の根本思想は徹頭徹尾、奇襲による連合軍への勝利だった。よって奇襲の効果を損なう要因は徹底的に排除し、専ら突進によって作戦目的を達成しようとした。英印軍がもし日本軍の奇襲を受け流し、「後の先」をとったとなれば、「ウ」号作戦は既に成功の望みを半ば失ったのも同然だった。