ここにおいて、インパール作戦の発案者は南方軍、意思決定者は方面軍、そして認可したのは大本営であり、その意思を実行に移したのが第15軍という構図が明確になる。
牟田口の主張する手段には難があっても、その目的は同一だった。しかも軍中央の企図にも則したものである。そのプロセスを、指揮官の状況判断という視点から振り返る。
河邊中将は3月31日の午後、ビルマ方面軍司令官へ着任するため、ラングーンに到着した。そして河邊中将が中永太郎参謀長からビルマの全般状況を報告された翌4月1日には、牟田口がインド進攻作戦に対する希望を方面軍司令官に具申する。
その一方、河邊は日記に、牟田口第15軍司令官より辺疆において見た一般状況について報告があったが、それはなんとかして今のうちにインド要衝へ突入し、事変の解決にまで持って行きたいという壮大なる意見だった、と書いている。
河邊は河邊で、この作戦に対する思いがあった。河邊は、これまで支那派遣軍総参謀長として南京にいた。昭和18年3月18日、ビルマ方面軍司令官に親補(編集部注:天皇がみずから官職を命じること)され、直ちに上京する。3月22日には、東條陸軍大臣に申告を済ませた。その際、上京中のビルマ行政府長官バー・モウ博士を紹介された。
河邊中将は東條首相(陸相)と懇談に入ったが、この時、首相は「日本のビルマ政策はインド政策の先駆に過ぎず、重点的目標は後者(インド政策)にあることを銘記されたい」と抱懐を漏らした(河邊正三「緬甸日記抄録」)。河邊中将も首相の意見に同意を表明する。河邊と東條は在スイス、ドイツ時代からの盟友である。河邊中将もインド施策に対する強い意欲を胸中に秘めてビルマに赴任するのだった。
強固な信頼関係
河邊中将は牟田口の意見具申に接した時、「壮大なる意見」とは感じたものの、意表外に誇大な構想としては受け取っていない。河邊中将のビルマ着任時の心境も「やがてはインドへ」といったものであった(河邊「緬甸日記抄録」)。
これで、インド進攻は意思決定から実行に移す者たちまでの共通した認識となった。基本的なスタンスは「牟田口ができると言っているんだから、やらせてみよう」というものになった。本来なら、これで終わりだ。しかし、そうはならなかった。それに続き、反対するものは転任させられ、作戦の可能性に疑問を持つ者は口をつぐんだのである。
また4月27日、河邊司令官が高級参謀片倉衷大佐を伴い、初度視察のため、メイミョーを訪れた時のことだ。牟田口は河邊に対して戦局に関する状況報告を行った。しかし報告の主体はチンドウィン河西岸にある敵に対し、雨季に先だち進攻したい、というものだった。