この時、片倉の胸中は穏やかではなかった。司令部に到着するや、なにか落ち着かず、焦燥気味であると感じた。すると小畑信良軍参謀長(当時)から「軍司令官の方面軍司令官へ対する状況報告には陪席を遠慮されたい」との申し入れがあった。片倉も黙っておられず、「いやしくも参謀長代理として、方面軍司令官に随行中の私を除外して状況報告することなどありえず、もし特に人事問題でもあれば、私から席をはずします」と返事をした。しかし再度の申し入れがあり、片倉は河邊方面軍司令官に「東インド進攻作戦に話題が触れる場合、即答を控え、必ず私を招致されたい」と耳打ちした。
しばらくして伝令が招致を伝えた。そこで扉を開けて中を見ると、円卓に河邊方面軍司令官と牟田口軍司令官が向かい合い、牟田口の目からは涙が零れている。河邊方面軍司令官は「今、牟田口から、ウィンゲート部隊の掃討の状況、防衛関係のほか、インパール方面進攻についての所信が述べられた」と説明した(片倉『インパール作戦秘史』)。
その時まで河邊、牟田口両司令官の二人だけで水入らずの対談が行われていたが、インパール進攻論が出たのを機に、河邊中将は片倉を呼び入れたのである。そして牟田口は熱誠溢れる口調になり、「ぜひ牟田口にこの作戦をやらせていただきたい」と片倉にもインパール進攻論を説いた。
河邊中将は、即答すべき問題ではないと見た。そして第15軍のインパール攻撃計画を早急に具体化し、方面軍へ提出するように要請した。これから計画を方面軍に提出し、認可を受けるということになれば、雨季に先だち防衛線を推進しなければならない。そのような急を要する作戦は放棄せざるを得ないのである。こうして会見は終わった。
インパール進攻論を力説
河邊方面軍司令官は、その後、ラシオ、拉孟方面を視察した。第56師団長松山祐三中将からは雲南方面、怒江正面の重慶軍の状況、我が方の配備について報告を受けた。そして再びメイミョーに立ち寄った。
メイミョーでは、河邊方面軍司令官は片倉高級参謀と常に夕食を共にし、懇談をした。その際にも、河邊中将は方面軍司令官着任前の東條首相とのやり取りを伝え、「私自身も対印施策に関心がある。牟田口の意見は、なお検討の余地はあるが、方面軍唯一の軍司令官でもあり、盧溝橋の時の私の部下の連隊長だ。なんとかしてその目的を達成させてやりたいが、君も、考えて構想を練ってくれ」と繰り返すのだった。
河邊は牟田口に第15軍の作戦計画の提出を要請したが、方面軍でもビルマ全域での作戦計画について検討を進めていた。その後、5月6及び7の両日、シンガポールの南方軍総司令部で全般の軍司令官会同が行われた。
牟田口も会同に列席した。牟田口は、その途中、5月3日、ラングーンを訪問した。この時もインパール進攻論を力説するのを忘れなかった。河邊は牟田口の主張に同調の態度を示した。そして片倉にも「なんとかして牟田口の意見を通してやりたい。君も反対しないで牟田口の案が成り立つように検討してくれ」と重ねて命じるのだった(片倉『インパール作戦秘史』)。