「大東亜戦争に決定的な影響を与えることができれば、国家に対して申し訳が立つ。」
それは、第18師団長当時、飯田第15軍司令官から21号作戦に関する意見を求められ、不同意を唱えたことである。その後、作戦の構想が大本営の意図によるものと知り、牟田口は心から悔いた。牟田口は軍職を奉じて初めて、上司に消極的な意見具申を行ったのだ。しかも南方軍及び大本営の希望を覆し、第15軍の戦意を疑わせ、軍の威信を汚す結果になったのである。牟田口は誠に申し訳ないことをした、と自分を責めた。
そして今後は、「上司の意図に対しては手段を尽くして積極的に具現しなければならない。将来いずれの日にか、再びアッサム進攻作戦が決行される機会もあろう。その時こそ断じて後れをみせてはならない」と心中深く期するのだった(牟田口「インパール作戦回想録」)。
それは牟田口が上司に対して自ら誓約したように、部下に期待することでもあった。
また、牟田口は手記に「わたしは盧溝橋事件のきっかけを作ったが、事件は拡大して支那事変となり、遂には今次大東亜戦争にまで進展してしまった。もし今後、自分の力によってインドに進攻し、大東亜戦争に決定的な影響を与えることができれば、今次大戦勃発の遠因を作ったわたしとしては、国家に対して申し訳が立つ。男子の本懐としてもまさにこのうえなきことである」と著している(牟田口廉也「手記」)。
牟田口のインパール作戦発動の信念は「大東亜戦争に勝ちたい」の一言に集約される。つまり戦争全局を好転させるのはこれしかない、という念願を持っていたのである。
彼は戦争勃発の当事者の一人として、その責任を真摯に感じていた。他の者がそれを建前だと言ったとしても、牟田口の場合、真剣に考えてのことだと見るべきであろう。牟田口は東條を通じ当時の主権者であり、神格化された天皇の言葉を知ることのできる一人だったからだ。
それだけではなかった。天皇は昭和13年(1938年)7月に起きた「張鼓峰事件」の概要を聞いた際、「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条湖の場合といい、今回の事件の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いるようなこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う」とたしなめたのである(原田熊雄述『西園寺公と政局〈第七巻〉』岩波書店)。これは、この事件に関与した者にしかわからない強烈な存念として心に刻まれた。