第二次世界大戦における旧日本軍のもっとも無謀な作戦であった「インパール作戦」惨敗の主因は、軍司令官の構想の愚劣と用兵の拙劣にあった。かつて陸軍航空本部映画報道班員として従軍したノンフィクション作家・高木俊朗氏は、戦争の実相を追求し、現代に多くのくみ取るべき教訓を与える執念のインパールシリーズを著した。

 インパールを知らぬ世代、必読! シリーズ第3弾『全滅・憤死 インパール3』より、インパール盆地の湿地帯に投入された戦車支隊の悲劇を描く「全滅」の冒頭を一部紹介する。

(全3回の3回目。#1#2を読む)

ADVERTISEMENT

「全滅・憤死 インパール3 」 文藝春秋

◆ ◆ ◆

飢えより恐ろしい雨季

 トルブン隘路口に英印軍が進出したことは、単に弓兵団の補給路を危くするばかりではなかった。同時に、進出したばかりの第15軍の戦闘司令所も脅威をうけ、新しい作戦計画に影響がおよぶことでもあった。それは、第15軍の戦闘司令所が移動してきた地点が、トルブン隘路口の西北方の山中であったからだ。

 天長節の祝賀式をインパールで挙行しようとする牟田口軍司令官の夢は破れた。5月 となり、インパールに向った各師団は、惨敗し、糧食も弾薬も補給が困難になっていた。

 飢えも恐しかったが、それ以上に恐るべきものが近づいていた。雨季は5月から9月の終りまでつづくのだ。

 天長節をすぎてから、インダンジーの戦闘司令所では牟田口軍司令官の怒号が一層激しくなった。狂気のような軍司令官の激越な怒声は、徒らに幕僚、将兵を恐怖させるばかりだった。

 戦況の困難を気づかって、ビルマ方面軍司令官河辺正三中将は、参謀長中英太郎中将をインダンジーに派遣した。河辺方面軍司令官はパレル道に重点をおき、ここよりインパールに突進すべきだ、と考えていた。中参謀長は、そのことを牟田口軍司令官に伝えるつもりであった。

 

次々困難になる戦線

 作戦開始の当時、牟田口軍司令官が最も重要視していたのは、烈第31師団であった。この兵団はインパールの北方約100キロメートルのコヒマに進出した。牟田口軍司令官は、さらにこの兵団を、インドに深く進撃させようと考えていた。インド征服は、牟田口軍司令官の壮大な夢想であった。

 烈のコヒマ戦線が困難になると、牟田口軍司令官は祭第15師団に望みをかけた。祭兵団は東方からインパールに迫り、10キロメートルの地点にまで進出していた。だが、その戦線も混乱し潰滅しようとしていた。

 牟田口軍司令官はその次の攻勢の重点を、河辺方面軍司令官の考えと同じように、パレル道を進撃している山本募少将の指揮する山本支隊に移すことにした。