第二次世界大戦における旧日本軍のもっとも無謀な作戦であった「インパール作戦」惨敗の主因は、軍司令官の構想の愚劣と用兵の拙劣にあった。かつて陸軍航空本部映画報道班員として従軍したノンフィクション作家・高木俊朗氏は、戦争の実相を追求し、現代に多くのくみ取るべき教訓を与える執念のインパールシリーズを著した。

 インパールを知らぬ世代、必読! シリーズ第3弾『全滅・憤死 インパール3』より、インパール盆地の湿地帯に投入された戦車支隊の悲劇を描く「全滅」の冒頭を一部紹介する。

(全3回の2回目。#1#3を読む)

ADVERTISEMENT

©iStock.com

◆ ◆ ◆

「えらいとこへきましたわ」

「気をつけろ。谷は深いからな」

 霧がなくなると、林のなかを走っていた。深い、長い密林の道であった。前方に赤いガラス玉のようなものが光った。

「なんだ、あれは」

 光は道を横切って動いた。前照灯の光のなかから、大きな動物のうしろ半身が消え去った。瞬間であったが、黄色の長い毛なみと、黒いしまと、ふとい尾が目に残った。

「虎じゃないですか」

「山猫だろう」

「まともに出あったら、一コロにやられますね」

「うん、大きかったな」

「えらいとこへきましたわ」

©iStock.com

「よわねをはくな。貴様、出発の時は調子のいいことをいってたぞ。インパールへ、インパールへ、アラカン越えて我は行くなり、とかいって」

「いやあ、いまだって愉快ですよ。よくぞ、男に生まれけり、といったとこですよ」小山副官は童顔に笑いを浮かべた。

「しかし、大移動だったな」

「インパールへ行け、といわれて出発したのが端午の節句ですから、10日間で600キロ以上走りました」

「ビルマの東から西へ、ジグザグに横断したんだからな」

「全滅・憤死 インパール3」  文藝春秋

 瀬古大隊は第15師団の歩兵第67連隊の第1大隊であった。昭和19年3月、インパール作戦が開始された当時は、瀬古大隊はこの作戦に参加していなかった。瀬古大隊はビルマの東部、シーポー地区の防衛司令官の指揮下におかれて、警備にあたっていた。シーポー地区は中華民国(当時)雲南省との国境に近く、中国軍が侵入しようとしていた。

 瀬古大隊は歩兵第67連隊から分離されていたし、第67連隊もまた、直属の第15師団から分割されていた。この連隊はインパール作戦のはじまる前には、タイ駐屯ぐん軍の指揮下にはいり、タイ国からビルマへの道路構築に使われていた。

 インパール作戦がはじまることになって、連隊主力は師団を追及中、降下した英軍空挺部隊の攻撃にふりむけられた。