牟田口軍司令官は猪突猛進の豪傑が必要であると考えた
牟田口軍司令官は怒って、柳田師団長を全く遠ざけてしまった。さらに、作戦が予定通り進捗しないのは、柳田師団長の臆病と戦意のないためであるとして、解職の手続きをとった。その結果、作戦間の師団長の更迭という類例のない事態となった。
牟田口軍司令官は、この困難になった戦況には、柳田中将のような優等生型の臆病者の代りに、猪突猛進の豪傑が必要であると考えた。その適任者として選んだのが田中信男少将であった。
当時、田中少将は独立混成第29旅団長としてタイ国にあった。少将であるから、旅団長にはなれるが、師団長にはなれなかった。牟田口軍司令官は、なんとしても、インパール戦線に猛将田中をほしかった。そのために、田中少将に対し、第33師団長心得の名目を与える処置がとられた。この命令の発せられたのは、柳田中将の免職の翌10日であった。
こうした処遇をうけた田中少将は感激した。牟田口軍司令官がそこまで期待をかけてくれるならば、それに必ずむくいるところがなければならないと決意した。満州事変では敵将馬占山をとり逃がしたが、今度はインパールに一番乗りをしなければならぬ、と覚悟をした。
突然、東方の山のなかから重機関銃の音がひびいた
田中少将は師団長心得の命令に勇躍して、即日出発した。途中から、第15軍の高級参謀木下大佐の車に同乗して、ビルマ=インドの国境を越えた。木下参謀は牟田口軍司令官に従って、戦闘司令所を移動させる途中であった。
瀬古大尉が田中少将に出会ったのは、この途中のことであった。
瀬古大隊が乗せてきた自動車隊のトラックは故障の修理に手間どり、出発できなかった。その間に、田中少将は木下高級参謀らと先に前進して行った。
その日、5月17日の薄暮、田中少将は南道38マイル付近に到着した。そこには弓第33師団の輜重兵連隊の本部があった。新任の師団長を迎えた輜重兵第33連隊長の松木熊吉中佐は、意外な報告をした。それは、そこから約8キロメートルの前方に英印軍が進出し、南道を封鎖してしまったというのだ。その場所は、山あいの谷になっているので、付近の部落の名をとって、トルブン隘路口と呼んだ。
弓師団の前線に糧食を緊急輸送するために、兵器勤務隊の中村小隊が12輛のトラックで、そこを強行突破することになった。隘路口の南34マイル道標の近くに道路を横断して川が流れている。橋の上にはドラムかんが高くつみあげてあった。明らかな妨害であった。先頭車の兵がおりて、ドラムかんを取り除きにかかった。突然、東方の山のなかから重機関銃の音がひびいた。ドラムかんは爆発し、激しい火煙があがった。兵は打ち倒され、全員が死傷した。隘路口の突破は困難なものとなった。
松木連隊長は急を聞いてかけつけ、敵情を視察し、36マイルの東方高地に斥候を派遣した。その時は、出没している英印軍の数は100名以下と見られた。
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