瀬古大尉が死を覚悟しているように感じた
瀬古大尉と安西中尉はインダンジーからインパール南道に出て、後続してくる本隊を待ちうけた。その間に、瀬古大尉は当番兵に髪の毛をそらせた。瀬古大尉は林のなかにあぐらをかいて、目をつむっていた。36歳だというのに、前頭部ははげあがっていた。そのために、当番兵がそりあげるのに、手間はかからなかった。
安西中尉は道路の方を警戒していた。そのうち、ふと瀬古大尉を見て、妙に感じた。頭をつるつるにそりあげた瀬古大尉は、まだ、あぐらのまま、瞑目していた。それは禅僧が座禅をしているように見えた。安西中尉は、瀬古大尉が死を覚悟しているように感じた。
やがて、大隊の先頭の一団が前進してきた。大隊副官の小山中尉の引率する大隊本部と、本部直轄の第1中隊の第1小隊であった。第2中隊は1日行程おくれ、第4中隊はさらにおくれるということであった。それは、これらの部隊を同時に輸送するだけのトラックの数量がなかったからである。
「いよいよインドにはいったぞ」
インダンジーで橋本参謀から、急速に前進せよ、と命ぜられていたので、瀬古大尉は、先頭梯団をひきいて、すぐに出発した。
ビルマとインドの国境には、東西100キロメートル幅にわたって、いくえにも山脈がかさなりあっていた。そこには、パトカイ、ナガ、チンなどの山脈があり、また、3000メートル以上の高峰もあった。これらを総称してアラカン山系と呼んでいた。インパールに通じる南道は、その山腹をたどり、尾根を越えて行った。
瀬古大隊を乗せた自動車隊のトラックは故障が多く、山道に難行し、休止、停滞をくり返した。
やがて、道はくだりが多くなり、チッカという小部落を通った。しばらく行くと、道路標識の数字は、72マイルを示した。インパールに通じているおもな道路には、マイルの数字を刻んだ道標がつづいていた。チッカ付近の南道の数字はインパールを起点としていた。道標の数字がすくなくなることは、それだけインパールに近づくことを示していた。
72マイル道標の近くの路傍に、石の標識が立っていた。それには英文で、ビルマとインドの国境線であることが記されていた。
「いよいよインドにはいったぞ」
将兵は押えがたい興奮と感慨にかられた。昭和19年5月17日の午後であった。 瀬古大隊をのせた7輛のトラックは、さらに前進をつづけた。40マイル道標を過ぎると、瀬古大隊長はトラックをとめて、小休止を命じた。そして、安西中尉をつれて、地形偵察に出た。