軟式出身と硬式出身選手のどちらが大成するのか? そんな難解な問いに説得力を持って答えたのが、KKコンビをPLに導いた伝説のスカウト・井元俊秀氏(86)だ。
井元氏が「ひ弱な選手が硬式には多いような印象は受けます」と語る理由とは? ノンフィクションライターの柳川悠二氏の新刊『甲子園と令和の怪物』より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)
◆◆◆
伝説のスカウトの引退
PL学園(2016年夏に活動停止)の伝説のスカウトとして知られるのが、井元俊秀だ。
1962年に監督として母校でもあるPL学園を初めての甲子園出場に導き、その後は野球部の顧問として全国の有望中学生に眼を光らせ、学園のある大阪府市富田林に集めて常勝軍団を築き挙げた。
同校で不祥事が起きた2002年にPLを追われた井元は、青森山田で12年間、秋田のノースアジア大明桜でも8年間にわたってPL同様の役割を担い、近畿圏の中学生球児を東北へと送り出してきた。
「PLが強くなる以前も、選手を集める学校はあったと思いますよ。たとえば、同じ大阪の浪商は尾崎行雄らの時代は選手を集めていたはずです。昔はね、『PLは全国から選手を集めている』と批判され、高野連に睨まれていた。でも、本当の事情は違うんです。PL学園は私学で、寮があった。
だから、大阪の私学連盟から、『大阪の学生は大阪の学校に通わせたい。寮のあるPL学園さんは地方の生徒を入学させてほしい』という要望が学校に対してあった。仕方なく地方の生徒に声をかけたというのが実状なんです。ところが、そうやって地方の選手が入学してくると、『プロのスカウトみたいだ』と……。だから私は『スカウト』という言葉が嫌いなんです」
60年以上にわたる高校野球との関わりの中で、これまでに携わった3校が春夏の甲子園に出場した回数は計45回にものぼり、通算の勝利数は99勝だ。この記録は甲子園通算68勝という歴代最多勝利記録を持つ智弁和歌山の前監督・高嶋仁の偉業と、個人的には同等に語り継がれてしかるべき業績と思っている。そして、プロに送り出した球児も総勢83人を数える。
「本当はもう少しプロになった選手はおるんだけど、私が認めていないプロがおるから、その選手はカウントしていません」