「決勝で投げたとしても、故障はしなかったかもしれない。だけど、故障リスクが最も高い日だったことは間違いありません。だから登板させなかったことは後悔していません」

 2019年夏の岩手大会決勝で、エースの佐々木朗希の「登板回避」を選んだ結果、チームは大敗を喫することとなった國保陽平氏インタビュー。あれから数年経ち、大船渡高校の監督を退いた今、彼は何を語ったのか? ノンフィクションライターの柳川悠二氏の新刊『甲子園と令和の怪物』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

令和の怪物・佐々木朗希を育てた男は、今何を思うのか? ©藤岡雅樹

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退任の理由

 千葉ロッテの佐々木朗希が完全試合を達成してから1週間が経過した2022年4月17日の北海道日本ハム戦でも、佐々木は8回までパーフェクト投球を続けた。ところが、球数が100球を超えていたこともあり、2試合連続完全試合まであとアウト三つの場面で降板した。

 試合後、偉業を目前に交代を指示した監督の井口資仁に対しては、好意的な意見が大半を占めた。2007年の日本シリーズで、中日の監督だった落合博満が8回まで完全投球を続けていた山井大介を降板させ、猛批判を浴びた時とは大違いであろう。

 目の前の勝利を求めつつ選手個人の将来にも目を向ける――。野球界にそうした意識改革をもたらしたのは、佐々木を擁しながら彼の身体を守るという理由で、岩手大会決勝の登板を回避させた國保の決断の衝撃が大きかったからに他ならない。

 國保が佐々木を無傷のままプロの世界へ送り出そうとしたように、20歳とはいえ身体がまだまだ出来上がっていない佐々木に千葉ロッテも配慮し、「今は無理を強いる時ではない」と判断したのだ。野球ファンもまた令和の怪物が、さらなる飛躍を遂げるまで温かく成長を見守っている。投球障害予防を念頭において、成長を見守る状況を生み出したのが、國保とも言える。

 もし國保が甲子園出場を宿命づけられるような強豪私立の監督で、甲子園出場に自身のクビを賭しながら戦うような監督であれば、大エースにケガの心配があるからといって、甲子園切符の懸かった地方大会の決勝で投げさせないという判断は下せまい。公立高校の体育科教員である國保だからこそ、全国的に議論を呼ぶような決断が下せたはずだ。

 にもかかわらず、佐々木が完全試合を達成したあと、國保はメディアに対して口を開いていなかった。20年夏に逡巡の日々を告白した國保だが、佐々木が偉業を成し遂げたことを受けて、改めて聞きたいことが私にはたくさんあった。

 佐々木の完全試合の後に、私は國保が大船渡の監督を退いていたことを知った。まったく報じられていないその真相も知りたかったし、野球人・國保のバックボーンについても改めて質問をぶつけたかった。登板回避の決断の正しさは佐々木の偉業によって証明されたような形だが、なぜその判断ができたのか。詳しく語られてこなかった國保の米国独立リーグ時代の経験に起因しているように思えてならなかった。

 そして、國保の第一声を報じるのは、逡巡の日々を告白した相手である私の役目だという勝手な使命感にも駆られていた。