西武の内海哲也投手(40)が8月16日に今季限りでの現役引退を表明した。同日まで通算135勝104敗。うち133勝が長くエースとして君臨した巨人で挙げたものだ。FA移籍した炭谷銀仁朗(現楽天)の「人的補償」として19年からプレーした西武では、巨人時代の輝きは取り戻せなかった。
人的補償は「人身御供」とも呼ばれ、ネガティブなイメージが付きまとう。巨人は過去、12球団断トツの14選手を放出してきた。巨大戦力に埋もれた“掘り出し物”があっても良さそうなものだが、意外にも移籍先で大化けした選手は多くない。
内海をプロテクト選手名簿から外した巨人には先見の明があった?
内海は敦賀気比高時代の2000年のドラフト会議で、オリックスに1位指名を受けながらも、祖父と同じ巨人でのプレーを夢見て入団を拒否した。社会人野球の東京ガスに進み、03年に晴れて自由獲得枠で巨人入りを果たした。06年に初の2桁勝利となる12勝を挙げると11、12年には2年連続で最多勝を獲得した。特に12年は日本シリーズで2勝を挙げ、最高殊勲選手となるなどキャリアのハイライトだった。09年を除き、13年まで全て10勝以上をマークした。
だが、成績は下降線をたどる。そして18年オフ、FA炭谷の人的補償で西武移籍に至った。
前年5勝からの巻き返しを期した西武での1年目は登板なしに終わった。20、21年と各1勝にとどまり、投手コーチ兼任となった今季は引退表明時点で2試合に登板しただけだ。球団のホームページ上で「やりきりましたの一言。本当に幸せな野球人生を送らせてもらった」と19年に及ぶ現役生活に別れを告げるコメントを寄せた。
西武では4年間で、わずか8試合の登板、2勝3敗という成績で引退表明した。結果を見る限り、内海をプロテクト選手名簿から外した巨人には先見の明があったと言える。
「巨人は生え抜きの元エースの放出で、苦渋の決断だったと思います。炭谷も巨人で絶対的な正捕手になれずに楽天に移籍しましたが、内海の西武での成績を振り返れば、正解だったと言わざるを得ません」
と語るのはかつて人的補償で巨人から選手を得た球団の元監督の言葉だ。