著者の名前に、お、舞城王太郎か、と予備知識のある人も、聞きおぼえのない人も、小説の野蛮さと自由さを体感するには本短編集を一読されたし。収録される7つの短編は探偵小説あり、怪談あり、学園恋愛ものありとそれぞれムードが異なる(ちなみに書体もばらばらだ)が、疾走感と、読者の気に障ろうとする毒っぽさは共通している。
巻頭作「奏雨(そう)」は、連続殺人鬼〈足切り〉を追う警察官の「俺」に、探偵であり友人でもある奏雨がこう助言する。「連想に囚われてることを自覚すべきだって話だよ」。生きた被害者は自らの片足を切断し落命したという、ある意味で荒唐無稽な推理の裏付けには、人間の思考のパターン化についての考察がある。ひとつの条件下における最善の策の模索のはずが、手癖のような発想の枠から脱しきれないことの致命傷。身につまされる人も多そうだ。
「雷撃」は、積乱雲の学術記号の「シービー」とあだ名される長身のいかした女の子を好きになった14歳の「僕」の恋愛模様と並行し、4歳から続く、お掃除ロボットぐらいの大きさの石との共生のいきさつが語られる。石は「僕」の友のようにペットのようにどこにもついてまわり、ときにはクラスメイトを「成敗」したりも。まるで恋人のような愛着関係にあるが、心理面の負担が増していくなか、いかに石と決別して自立をするのか。
ふと、二世信者の苦しみのようなテーマをここから読み解きそうにもなるのだが、いやいやそれは牽強付会だと我にかえらせる舞城の徹底的にナンセンスな筆致がすばらしい。
もう一作紹介するなら「代替」をあげたい。生来の性悪で、両親を始めとする関わった人すべての心身を痛めつけてきた「お前」を、「俺」は背後から見ている。死以外に行きつく先のない「お前」、救いのない「お前」の肉体が実際に報復でぼろぼろになったとき、「俺」は代替者としてその内部に入りこむのだ。そこには励ましがあり、善良な存在に生まれ変わらせたいという人の希求があり、温かい。
ただし話がここで終わらないのがキモなのだ。「俺」はあることを実行する。「お前のやりたいことが死ぬことじゃなければよかったのにな」。現代の風潮として、凶悪な罪を犯した人物の責任を問う際も、生育環境や社会構造を下敷きとするコンテキストが形成されることがあるが、真の悪を、そうした理解しやすい物語に落とし込むこと自体の危険性を、本作は描いたかのように読めるのだ。
舞城は高速のスピード感で言葉を繰り出し、概念を打ち出し、それを自らひっくり返していく。安定や有意性を求めがちな読者にとって、本書はいわばノイズだ。しかしノイズでしか伝わらない世界の複雑さに向き合うのが、著者の誠実でもある。よい小説とは何か。それも問い直される。
まいじょうおうたろう/1973年、福井県生まれ。作家。2003年『阿修羅ガール』で三島由紀夫賞受賞。近年は漫画原作・原案、短編映画やアニメの脚本・監督も手掛ける。
えなみあみこ/1975年、大阪府生まれ。書評家。京都芸術大学専任講師。著書に『世界の8大文学賞』(共著)など。