主君が自然死した場合に、家臣や家族など関わりがあった者が後を追って自害することと知られている「殉死」。しかし、実際には、殉死した多くは主君と近い距離にあった武士ではなく、下級の武士だったということがわかっている。いったいなぜ下級武士は関係性の薄い主君のために殉死を選んでいたのか。

 ここでは、2020年に逝去された文学博士の山本博文氏の著書『殉死の構造』(角川新書)の一部を抜粋。資料をもとに佐賀藩で殉死した下級武士たちの姿に迫る。(全2回の1回目/後編を読む)

◆◆◆

ADVERTISEMENT

鍋島茂賢の殉死者

 佐賀藩の下級武士の気風は、鍋島茂賢の殉死者にもみることができる。

 茂賢は、6000石の知行取りで、深堀を領していた。三家(支藩)・親類・親類同格に次ぐ家老の家柄で大身の部類であるが、それほど多くの家来はいない。領地の関係で長崎警備の役を負っていたため、藩から多くの組家中を預けられていた。

 正保2年(1645)、茂賢が病死したとき、組家中18人と又供4人、計22人が殉死をした。そのうち組衆(勝茂から預けられた直参の者)が2名いた。

©iStock.com

 家老たちは、「殿様を差し置き寄親の供仕る儀、然るべからず」としきりに止めたが、「慶長五年の柳川攻めのとき(関ヶ原の合戦後の局地戦)、安芸守殿(茂賢)から選ばれて組に入り、同じ枕に死のうと申しかわしました。その時は、安芸守殿が討死にしなかったので、今まで生き長らえてきましたが、武士たる者が同じ枕と申しかわして、一日も跡に残ることはできません」と言い張り、ついに許されて殉死した(『葉隠』「聞書」八)。佐賀市本庄町上飯盛の妙玉寺に主従の墓がある。

 よほど信頼を受ける寄親だったようであるが、茂賢の日頃の行動を知る話として、『葉隠』に次のような逸話がみえる(「聞書」八)。

   鍋島茂賢が、あるとき食事中に来客があり、席をはずした。それをいいことに、茂賢の家臣の何某が、茂賢の膳にすわり、焼魚をつまみ食いしていた。そこへ茂賢が戻ってきた。何某は、うろたえて、その場を走り逃げていった。茂賢は、

  「あいつ、人の食ふものをくふてにくい奴」

   といっただけで、そのままその膳にすわり、食べかけの焼魚を食べた。その家臣は、のち茂賢に殉死した。