茂賢は、このように鷹揚な親分肌の武士だったようである。寄親と寄子の信頼関係による殉死であるが、ここに明瞭に現れているように、殉死とは、必ずしも主従関係の絶対化によるものではなく、たがいの情誼的な繋がりによる行動だったのである。
また、このエピソードで殉死した家臣であるが、主君の焼魚をつまみ食いするような家臣であるから、それほどたいした者ではあるまい。それが、つまみ食いをゆるされたという程度の恩で殉死するのである。この程度のことはさまざまなケースで起こりうるから、それぞれがそのような恩を主張し、争うように殉死していったのだと想像される。
殉死という、いわば犬死に近い行動を支えたのは、このような一方的な一体性の認識であった。その場合は、下級武士ほどわずかな恩で感激することになると思われる。
奥方への殉死
さて、他藩の事例に移るまえに、佐賀藩の特徴である藩主の奥方たちへの殉死の事例も紹介しておこう。史料は『追腹子孫名書』で、子孫が明らかになるものについては、記載した。
陽泰院(鍋島直茂室、勝茂母、寛永六年正月没)への殉死
内田内膳…妻
石尾又兵衛…母
馬渡三郎左衛門…母
辻 惣右衛門…妻
加々良七兵衛…多久蔵人組
中原加兵衛…小城(支藩五万八千余石)家中副士
田尻善左衛門…有田勘解由組内手明鑓
馬場崎橋左衛門…小城家中副士
伝高院(鍋島勝茂長女、上杉定勝室、寛永十二年六月没)への殉死
里口九郎右衛門…男子なく、追腹後断絶。
同妹
藤井兵左衛門胤重…夫婦ともに殉死。二歳になる子がいたが、早逝して子孫断絶。
同女房
脇屋采女…子孫断絶につき、享保十九年、血筋の者を召し出し、脇屋の名跡を継がせ、十人扶持給付。
同女房
以上のように、奥方付きの女房衆や御付きの武士夫妻が殉死している。藤井兵左衛門夫妻などは、2歳の子がいるにもかかわらず夫婦ともに殉死している。ほかにも子孫が断絶している者が多く、殉死が子供らの栄達のためなどという解釈が、いかに浅薄なものかがよくわかる。